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「本物の伊達直人が、姿を現します――」。プロレスラー・初代タイガーマスクとして一世を風靡した佐山聡さん(59)が12月7日、東京・後楽園ホールのリング上で呼びかけると、スーツ姿の立派な体格の男性がリングイン。佐山さんとガッチリ握手して、こう話した。

 

「子どもたちは虐待されるためではなく、抱きしめられるために生まれてきたんです。涙を流すためではなく、周りを笑顔にするために生まれてきた。これからも支援活動を続けていきます。すべての子どもたちへ、生まれてきてくれて、ありがとう!」

 

そうスピーチした河村正剛さん(43)はリング上で、’10年のクリスマスに群馬県の児童相談所に、10個のランドセルを“伊達直人”の名前でプレゼントしたのが自分であることを、初めて公表した。

 

当時、この“伊達直人”による寄付が報道されるや、児童養護施設などに“伊達直人”を名乗って善意の贈り物をする動きが全国に広まり、「タイガーマスク運動」と呼ばれる社会現象にもなった。

 

劇画『タイガーマスク』の主人公・伊達直人は、児童養護施設で育った生い立ちから、ファイトマネーを稼ぐたびにタイガーであることを隠して本名で施設に寄付しつづけた。

 

劇画中に登場する“虎の仮面”をつけて現実のリングで活躍してきた佐山さんは、’11年に「初代タイガーマスク基金」を設立し、理事長に就任。今回、河村さんが公表に踏み切った理由を、こう話す。

 

「ここ最近、『タイガーマスク運動』も徐々に下火になり、縮小してきてしまった。今回、その火を絶やしてはいけないということで、河村さんが『子供たちのためなら顔も名前も公表してもいい』と英断してくれたのです」(佐山さん)

 

現在は群馬県在住で、ふだんは会社員として暮らす河村さん本人が、本誌の緊急インタビューに答えてくれた――。

 

「母はがんで、長いこと病院で生活していて、私が3歳のときに亡くなりました。だから、中学生のときに、生前の母の写真を見せられても、『この人が僕のお母さんなんだ、ふ~ん』と思うくらいで、ピンときませんでした」

 

母親の記憶がないという、つらい経験を静かに語る河村さん。母の死後、母親の親戚の家に引き取られたため、父親の記憶もない。というのも、母親が父親と別居していた期間に別の男性との間にできたのが河村さんだったからだ。

 

引き取られた母の親戚の家では、十分な愛情を注がれていたとは言いづらい。なんと小学校に入学するときに、ふつうならワクワクして子どもが背負うはずのランドセルすら、買ってもらえなかったのだという。

 

「母の親戚には『ランドセルなんて、欲しかったら自分で買え』と言われたんです。だから、布製の手提げの買い物袋で通った。『なんで僕にはランドセルがないの?』と思いながら、同級生に『(君は)自分で買ったの?』なんて聞いた記憶があります」

 

その親戚宅で肩身の狭い思いをしつつも5年間過ごし、その後、父親の実家筋に引き取られたのだが、今度は食事も満足に与えられなかった。育ち盛りの中学生時代に、栄養失調になったことも。そんな厳しい環境のなかで、公立高校に合格した河村さん。幸い学費は免除となったが、生活費は足りない。だから土木作業員のアルバイトをした。

 

卒業後に上京したいと考えていた河村さんは、東京近郊で就職口が見つかり、社会人生活をスタート。そして――。

 

「いまから19年前。24歳で初めて子どもたちに寄付しました。ランドセル、施設への1万円の寄付、そしてクリスマスプレゼントなどです」

 

過去の報道などでは、河村さんがランドセルを寄付したのは’10年のクリスマスが最初で、そこから’11年1月の「タイガーマスク運動」の流れができたと思われていた。しかし実際には、その10年以上も前から、河村さんは人知れず、“伊達直人”として善意の活動をしていたのだ。

 

「11歳のとき、父の親戚宅でこう言われました。『なんでお前なんか生まれてきたんだ、謝れ!』と。私は『生まれてきてゴメンなさい』と言うしかなかった。本当に、心に穴が開きました……。そのとき決意したんです。『大人になったら、子どもたちに寄付できる人間になろう。この先も僕のような境遇の子は出るかもしれない。その子たちの力になろう!』と」

 

その信念で河村さんは今日まで、ランドセルだけでも50個近くを寄付してきている。初代タイガーマスク基金には、’12年に会議に参加し始め、’14年には理事に就任。最後に河村さんは“心からの願い”をこう訴えた――。

 

「ご自分の子どもを抱きしめてください。家族を大切にしてください。もしゆとりがあれば、その友達も大事にしてほしい。それで十分『タイガーマスク運動』なんです。普通の人が、タイガーマスクになれるんです」

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