8月某日 北イタリア・パドヴァ
8月5日(現地時間)にリオオリンピックが始まってから既に数日、日本でもここイタリアでも今のところメダルラッシュに沸いているとおり、地球の裏側で頑張る選手たちの勇姿にテレビ越しで励まされている人たちもきっと沢山いることと思います。
私はスポーツに興味のある人間がひとりも居ない家庭環境に育ち、そして同じくスポーツに無関心な家に嫁いだ為に、残念ながらスポーツを熱心に観戦する習慣がありません。なので、オリンピックが開催されても競技をテレビで楽しんだりすることも滅多に無いのですが、開会式と閉会式だけは別です。これだけは見逃せません。
オリンピックの式典では、開催国の文化や技能を凝らしたアトラクションがお披露目され、その国において特に人気の高いとされる歌手や俳優なんかが登場します。勿論中には世界的に有名な人も現れますが、私はどちらかというとそういう機会でなければ知る術もない、現地限定のスーパースターのパフォーマンスを楽しみにしているところがあります。
ロンドンオリンピックは、世界に名だたるミュージシャンたちがじゃんじゃん出て来て、まるで夢のジャムセッション状態となって多くの人々を興奮の渦に巻き込みましたが、今回のリオの開幕式は、ブラジル文化を偏愛する私にとって、特別待ち遠しさを募らせるものでした。
ギターをつま弾きながら静かに国歌を歌ったのは私が敬愛して止まない、別名サンバの貴公子パウリーニョ・ダ・ヴィオラ。と言っても日本の方にはほとんど知名度が無いとは思いますが、まあそれはそれは素晴らしい人なんです。日本で言ったらそうだなあ、ちょっと違うけど例えば井上陽水さんがギター1本で君が代を歌ったような感覚とでも言うのか……。それから『マシュケナダ』など世界的ヒット曲を生みだしたジョルジ・ベン、ブラジル音楽好きや音楽業界の人であれば日本でも有名な大御所カエターノ・ヴェローゾに元文化大臣でもあったジルベルト・ジル等々、登場するのはブラジル音楽界における大御所たち。
そしてブラジルの誇るトップモデル、ジゼル・ブンシェンが、アントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)の歌う、世界で最も知られているブラジル音楽『イパネマの娘』に合わせて、ジョビンの顔が映し出された舞台へ向かって素晴らしい肢体を披露しながら優雅にキャットウォーク。
という具合に、日本での中継では音楽やミュージシャンの説明はなおざりだったと後で知らされてちょっとがっかりしましたが、私のような世界に分布するブラジル文化好きにとっては十分な演出だったと思います。
しかし、開会式の翌々日、ブラジルの新聞サイトに『イパネマの娘』のキャット・ウォークシーンで、この曲を作詞したヴィニシウス・ヂ・モライスという作家の娘さんが、スクリーンにはジョビンの顔しか写されず、自分の父親が省かれた事に抗議、という見出しが出ているのに目が止まりました。
『イパネマの娘』は確かにジョビンが唱って世界中に知らしめたわけですが、彼だけが手がけた曲ではなく、ヴィニシウスとの完全なコラボレーションですから、この物議も必然の成り行きだったと言えるでしょう。何より、今回のオリンピックにおけるマスコットの名前は一般投票で『トム』と『ヴィニシウス』になりました。2人の名前が選ばれた経緯も踏まえれば、確かに配慮の足りない演出だったと言えるかもしれません。
どうもこういう経済的にも力の入ったイベントというものは、立派なものにしようと頑張れば頑張る程、某かの欠点や汚点も浮上してしまう仕組みになっているようにも思えます。
100年後に行われているこのイベントが一体どんなものになっているのか……。
皆さんもご存知の通り、今回のリオでのオリンピック開催には様々な困難が立ちはだかっていました。開会式の日も、式典が行われているマラカナン・スタジアムの外では開催反対派の人々が激しいデモを起こしていたことからも判るように、ブラジルでは誰もが手放しでこの世界的祭典を楽しんでいるわけではないのです。
上に記した式典についても、不安定なブラジル政府による表面的な安定をアピールした空々しい演出だったという見解や、水面下で動いていた見えない力や策略やお金の気配を疑う声がいろいろと漏れ出ていましたが、昨今ではそんな報道や記事に目が行っても、もういちいち驚くこともなくなってしまいました。
そういえば、日本も5月頃にオリンピック招致委員会が約2億円の資金を元IOC委員の息子が関わるコンサルタント会社に移動させたのがフランス検察によって捜査されたりしていましたけども(その後どうなったんでしょう?)、今やオリンピックというのは、古代ギリシャの理念だけを継いだ大運動会というイベントである以前に、莫大な経済を動かすための国家単位の催しもの、というイメージが固定しつつあります。
日本の報道でもブラジルがリオオリンピック開催間近でもあるのに諸々の準備が遅滞していたり、競技会場となっている海に、度を超えた汚染問題があったり、何よりも強盗や盗難などといった治安の悪さを伝えていましたが、リオの住民やブラジル側にとっても、このイベントによって脅かされる問題は決して単純なものではありません。
これからもマイナス成長が確実と憶測されているブラジル経済の不振や、財政悪化のための様々な影響。そんな中オリンピックのために投資された莫大なお金に対して納得のいかないものを感じない人が居ないわけがなく、開催国として選ばれた時点では8割もいた開催賛成派が、最終的には4割になってしまったと言われています。
ショックだったのは、リオにも幾つもある低所得者層の暮らすファベーラと呼ばれる住宅地で、オリンピック開催に向けての治安の改善目的として送り込まれて来た警察などが、住人たちを何人も襲撃したという報道です。犠牲者は開催が決定してから現在に至るまで合計で2500人とされていますが、たとえファベーラがブラジルにとって犯罪の巣窟であり社会問題を醸す地域であるにせよ、殺されたのが2500人というのであれば尋常ではありません。中には、ただ遊んでいたり座っていただけの子供たちも含まれているといいます。
ファベーラに暮らす人々は好きでそこにいるわけではありません。皆経済的な理由から為す術も無く、その環境に適応しながら自分たちの生活を築いて生きているのです。なのにオリンピックという世界的なイベントを開くにあたって、いきなり外側から来る人には見えて欲しく無いと一掃しようとしたり、国家財政の現状に見合わない建造物を作ったり、理不尽で無謀な環境整備を企てるのは全く納得がいきません。北京オリンピックの時も開催準備の土地開発目的で1万人以上の人たちが住んでいた場所から強制退去させられたと言われていますが、蓄積している問題を力技で一気に解決するのも、招致国にとっては今やオリンピック開催の意義になっているのでしょうか。
財政に負担が掛かっても、建物や開発に莫大な経費を投じて必要以上に経済力のある国に見せようとしたり、円滑に社会が機能しているように見せかけたり、国家ぐるみで選手たちにメダルの数を増やすために薬を使わせる疑惑があったり、なんだかもうオリンピックというもののコンセプト自体がどこへ行こうとしているのか、さっぱり読めなくなってきています。
そういえば、去年テレビの取材で訪れたミラノのエキスポで、立派な各国のパビリオンが立ち並ぶ中でオランダだけが敷地に敢えて建物を立てず、テントの屋台だけの、気張らない空間を解放していたのを心底からかっこいいと思いましたが、例えばあのような斬新な発想のできるオリンピック招致国は、果たして今後出てくるのでしょうか。
まあ、競技観戦に熱中できる人間であればそんなことにいちいち注視しないでも済んだかもしれませんが、それにしてもです。古代ギリシャ人が今のオリンピックを見たら、何世紀も経てこんな催し物に発展をしたことには、腰を抜かす事は間違いありません。
これから100年後に行われているこのイベントが一体どんなものになっているのか……。そんなことを考え出すと、途方も無い気持ちになってきそうです。