「僕と結婚していなかったら、カミサンはうつにもならず、別の男性と結婚して子供を産んで。もっと幸せになっていたかもしれない。僕がズタズタにしてしまったから・・・妻へお詫びと謝罪の気持ちをいつも持っているんです」

と、呟くのは俳優・萩原流行(56)。夫婦でのWうつ病体験を公表して以来、街を歩いているときにも、うつの相談をされるように。先月、21年に及ぶうつ闘病と、夫婦愛の軌跡をまとめた『Wうつ』(廣済堂出版)を出版した。

今回、萩原夫妻が本誌だけに夫婦の「うつ闘病」の軌跡を語ってくれた。

image「人生は波乱万丈だなと思うけど、人間は一人じゃ生きていけない。カミサンは僕のこの世で一番の理解者だし、うつになったことで僕は“優しさ”を学びました。二人の経験を語ることが、同じ悩みで苦しんでいる人やご家族に、少しは役だつかもしれない。それで今回、夫婦で初めて本を創ったんです。テレビでうつを発表してからは、街を歩いていても、『娘がうつなんですが、良い病院しりませんか? リストカットばかりするんですよ』とかよく相談されるんです。僕は『本人が気づいていないなら見守るしかないですよ』と答えたりしています」

88年、最初に発症したのは元々感受性の強かった妻・まゆ美さん(56)。「強迫神経症・不安神経症・抑うつ神経症」と診断され、薬の服用とカウンセリング治療を開始。

「お医者さんに『奥さんの言うことにはすべてyesというように』と言われましたね。でもその後自分もうつになるとは思っていなかった」

発症から一年、まゆ美さんの症状が治まったころ、俳優として名が売れていた萩原は外に女性が出来て家庭をまったく省みなくなっていた。

それを知った妻は、「浮気ならまだいい。あなたの心に私がいない」と、夫に正面向いて問いただした。

「私が必要じゃないの?」と。

「必要じゃない!」

という夫の言葉が刃のように突き刺さった妻は、リストカットによる二度の自殺未遂を起こして家を出た。

「その時は、カミサンに『ごめん、帰ってきてください』って謝りました。それまでのぼくは本当に自己中で、自分だけよければいいって生きてきたのを実感しました。そして、4年後、自分がうつになるまで、その辛さを理解できていなかった。ささいな言葉でどれほど傷つくかってことも・・・」

記者が「お二人に子供がいたら違っていましたか?」と問いかけると、萩原は、ある覚悟を語りはじめた。

「20代の頃、カミさんは『僕の子供は産みたくない』って言ってたんです。僕の家族を見ていてね……。
30代も終わる頃、僕に、『私、40歳になるから子供一人産むわよ。あなたに選択権をあげるから考えて』って言ってくれて。うつになったばかりの僕は、その時、自分の子供のころを思い出したんです……」

萩原は名の売れたギタリストの息子として誕生した。だが父には既に別の家庭があった。しかも、母と兄に暴力をふるい続ける父の姿が脳裏に焼きついていた。

「僕のDNAがあり、そしてカミサンも僕もうつ病だと、子供は大変だろうなぁって。僕だって子供は嫌いじゃない。それでも子は親の背中を見て育つでしょう?
暴力的な父と同じ血が僕にも流れているし、その同じDNAが子供にと思うとすごく怖かった。このDNAは、僕で絶やそうと決めて、だから子供は作らなかったんです。カミサンは、『良かった。10月10日もおなかに赤ちゃんがいると大変だもの』って笑ってくれました」

“両親との絆をうまく結べないで成人した夫。そんな彼を社会人として、俳優として才能を開花させたい”と望んでいた妻は、夫の壮絶な決心を尊重し、笑顔で受け入れたのではないか。まるで母のような心で・・・。

そんな夫、萩原も91年に「気分変調症・そううつ病」と診断される。だが仕事はペースを落とさずに続けた。

image「僕が一番辛かったことは、芝居中、台詞が頭にはあるのに、ぜんぜん言葉に出てこないこと。ドラマで50回もNGを出したこともあります。集中力も散漫になるし、やる気も起きてこないし、綱渡りのような感じで仕事をしていました。朝起きるのが辛い。吐き気はする。頭痛、どこにも出かけたくないし誰にも会いたくない。でも仕事はこなさなければならないし・・・」

同じ主治医に罹りながら、うつの先輩である妻は、夫をこう慰め支えた。

「役者って仕事には心の病はつきものだと思うわ。一種の職業病だと思ってみたら?」と――。

「うつになってわかった大きなことに、言葉の大切さがありました。調子が落ちているときに『頑張って』って言われると絶望的な気分になる。カミサンが発病したときは、心無いことばでずいぶん傷つけてしまった。すごく辛かっただろうなぁ。これからは家の中のことも少し手伝おうって、家事をしたことがない僕が自然にそう思えてきましたね」

 

うつを抱えながら二人は、ほどよい距離感を保てるように時間をかけていったという。

「50歳直前に、カミサンに『舞台やりなさいよ』と励まされて、念願だった舞台をやったんです。僕はライフワークにしたいほどの作品でした。でもカミサンがその裏方として現場でものすごく苦労をして、うつが悪化しボロボロになってしまったんです。『ごめん、ご飯、炊事、洗濯できない』って。可愛そうなことをしてしまったと思いました。だから僕はそれをライフワークにするのを諦めました」

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