(写真:植松聖容疑者のツイッターより)
「聖くんの事件を言うなら、究極の弱い者いじめだよね。以前、隣同士でトラブルがあっても、聖くんは私のようなうるさいオヤジには『すみません』を連発するだけ。まったく抵抗しないんです。強い者には従う、そういう意味では、彼自身が弱い子に見えるんです、私には」と話すのは、植松聖容疑者(26)の隣人男性だ。
神奈川県相模原市内の障がい者施設『津久井やまゆり園』で26日に起きた殺傷事件。19名が死亡し、26人が負傷する戦後最悪の大量殺人となった。犯人の元施設の従業員、植松容疑者は衆議院議長あてに《私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です》と記した手紙を届けていた。歪んだ考えが漏れ伝えられる植松容疑者の凶行。事件はなぜ起きたのか――。取材を進めると、植松容疑者は父親を尊敬していたという近所の主婦の話が聞けた。
「真面目な普通の子でした。お父さんも小学校の図工の先生でいい方。子供会とか行事には率先して出てくれて、子供たちの面倒を見てくれていました。そういうお父さんって息子にしたら自慢でしょ。かっこよく見えていたと思います。お父さんのことをうれしそうに見てたもの」
高校生になっても植松容疑者は父親の背中を追っていたと高校時代に知り合った地元の友人は話す。
「サトはすごく明るいやつで話も上手。誰とでも仲良くなれる性格でした。将来は教師になりたいと言っていました。家に遊びに行ったとき、ピカソのような絵が飾ってあって、『お父さんが描いたんだ』とうれしそうに話していました」
しかし父のように教師になりたいと帝京大学に進学すると、植松容疑者に“変化”が現れるようになる。
「カッとなったり、キレやすくなった。髪を染めたり、入れ墨をしたのは大学2年か3年のころだと思います。自慢気に見せられましたね。田舎では仲間うちで楽しくやっていたけど、大学でいろんなところから来た学生と出会って、自分を強く見せたかったのかなと思いましたね」(前出・地元の友人)
冒頭の証言をしてくれた隣家の住人も、入れ墨のことはよく覚えていた。
「最初は金魚だけだったのに、2人目の彫師が背中までの大きな入れ墨にしたようですね。これをきっかけに親子関係がぎくしゃくし始めたみたいです」
しかし、植松容疑者自身はまだ教師への夢をあきらめてはいなかった。11年5月、大学4年で教職課程を履修すると、母校の小学校に教育実習に行った。指導に当たった教諭は、当時の様子をこう話す。
「小学校3年生を担当し、4週間、1日も休むことはありませんでした。子どもたちともすぐに打ち解け、和やかに教えていました。校内ではジャージで過ごしていましたが、入れ墨にはまったく気がつきませんでした」
教育実習は無事終了したものの、何らかのトラブルがあったのか、教員の道には進めなかった植松容疑者。このころから彼は、自暴自棄になっていく。合法ドラッグに手を出し、クラブに入りびたるように。母親につらく当たるようにもなった。
「よくお母さんが泣き叫んでいることもありました。彼にすれば父親は尊敬していたけど、母親は自分の言いなりで、大した存在じゃないと思っていたようです。お父さんにしても、入れ墨をして暴れる息子のことが職場に知れたら自分の仕事にも影響すると思ったんでしょう……。しばらくして、親のほうが家を出ていったんです」(前出・隣家の住人)
一軒家で一人暮らしを始めた植松容疑者の様子を、前出の地元の友人はこう証言する。
「(両親は)苦渋の選択だったと思いますよ。彼も落ち込んだ様子で『親が出て行った』ってポツンとひと言。尊敬していた父親に結果的に見捨てられたわけですから……」
両親が辛抱強くそばにいたら、彼の人生は違っていたのか。友人は断言する。
「無理でしょうね。4年ほど前からエスカレートしていった彼の暴走は、もう誰にも止められなかったと思いますよ」
大学を卒業し、大手飲料メーカー関連の配送会社に就職するも、半年で退社。12年秋、次に履歴書を送ったのが、やまゆり園だった。それから2年半が過ぎた今年2月、植松容疑者が衆院議長に送った手紙には障がい者470名を抹殺できるという内容が書きこまれていた。彼の中に生まれた“鬼”は抑えきれないものに育っていたのだ。人生の設計図が狂ってしまった絶望を、弱者へのいわれなき暴力に変えてしまう。そんな短絡的なスイッチが入ったために奪われた命はもう戻ってこない。