新駐日アメリカ大使キャロライン・ケネディ(56)。アメリカではケネディ家という名前は特別で「王室にも近い」響きをもっている。とりわけキャロラインは暗殺された大統領の父とジャッキーとの間に待ち望まれた一人娘であり、「アメリカの娘」とも呼ばれてきた。

 

’60年、キャロラインが2歳のとき、父は44歳の史上最年少で第35代米国大統領に選出された。翌年、ホワイトハウス入りすると、キャロラインは大統領の娘として常に世界的な注目を浴びることになった。

 

ホワイトハウスの芝生の庭で、自らの子馬“マカロニ”を乗り回す少女だった。その愛くるしい姿を見て、歌手ニール・ダイヤモンドが『スイート・キャロライン』という歌を作り、世界的な大ヒットとなった。

 

’63年11月22日、キャロライン、6歳の誕生日を迎える5日前、46歳の父はテキサス州ダラスで凶弾に倒れた。父のひつぎの脇で、母とともに、白い手袋をしてひざまずいているキャロラインの姿は人々の胸を締め付けた。

 

16歳で、名門市立女子高校コンコード・アカデミーに入学。自由な校風のなか、キャロラインは学校の噴水を泡風呂にしようとしたり、コーヒーショップでベリーダンスを踊り知らない子にキスしたり、いたずら半分にタバコも吸ったこともあるそうだ。

 

成績優秀だったキャロラインは、’76年に米国で屈指の名門大学、ラドクリフ・カレッジ(’99年、提携校のハーバード大学に統合)に入学。そのころ、「朝起きたら自分がケネディ家の人間じゃなくなっていればいいのに、一日だけでもいいから」とキャロラインは友人に打ち明けたことがあったという。

 

キャロラインはほかの生徒と交わることに努力していた。BMWの高級スポーツカーを持ってはいたが、もっぱら自転車やバスで移動した。「みんなと同じ店で買い物をし、彼女はおしゃれに全力を傾けたりしなかった」と当時の友人は語っている。キャロラインは色あせたジーンズにサンダルという姿で過ごした。

 

大学時代はほかの学生と同じように図書館で多くの時間を過ごし、専攻の美術だけでなく、古典建築、人類学、アフリカ系アメリカンの研究など幅広く学んだという。「仲間の輪に飛び込んでいけば、道は開けるってことを知ったわ」とキャロラインは述懐する。

 

’80年6月、ラドクリフ・カレッジを卒業後、コロンビア大学法科大学院を卒業。ニューヨークのメトロポリタン美術館勤務中に展示デザイナーのエド・シュロスバーグと出会い、’86年7月19日に結婚した。新婦キャロラインは28歳、新郎のエドは42歳。結婚後もキャロラインはシュロスバーグ姓を名のらず、ケネディ姓を通した。

 

「ケネディという名前は2つの大きな意味をもっています。1つはアメリカのよき時代を表し、暗殺という悲劇とも結びついています。もう1つは米民主党の掲げる、リベラリズムや平和主義ですね。キャロラインはその象徴でもあるのです」(『ボストン・グローブ』紙の編集者、ケネディ家に精通するピーター・カネロス氏)

キャロラインは、直接、政治活動をすることはなかったが、力を注いできたのは’89年に設立したプロフィール・イン・カレッジ賞。父がピュリッツァー賞を受賞した著作『勇気ある人々』の精神を受け継ぎ、政治的に勇気あるリーダーシップを示した政治家や公務員に贈られる名誉ある賞だ。

 

「私たち一家もまた銃による暴力が引き起こした悲しみが癒えていません。愚かな殺人によって奪われていい人などいないのです。しかし、私たちは苦痛と悲劇から立ち直り、生き続ける勇気をもち、さらに平和な社会を築き上げなければなりません」(’13年の同賞に選ばれた、人種差別種者に銃撃されたギフォーズ上院議員へのキャロラインのスピーチ)

 

恐れずに挑戦し続ける。これは理想を追求した父が提唱したニューフロンティアの魂であり、ケネディ家が受け継いできた精神でもある。悲しみを乗り越え、平和を築く困難に立ち向かうことを知るキャロライン。不確実な時代を明るく照らす、大使としての挑戦に期待したい。

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