「五輪代表には、もうパパになった選手もいるという話を拓としていたら、『俺は結婚できん。こんだけ家族が好きやから』と。特に“勝利の女神”と呼んでいる末っ子の妹にはデレデレなんです」
そう語るのは23歳以下のサッカー日本代表の浅野拓磨選手(21)の母・都姉子さん(50)。先月30日に行われたリオ五輪アジア予選の決勝で、強豪・韓国から2ゴールを決めた日本が誇るエースストライカーは、三重県菰野町で7人きょうだいの3男として育った。小1で2人の兄がいた地元のサッカー少年団「ペルナSC」に入団した拓磨少年。
「勝ちにこだわらずに、技術を磨こうというのがチームの方針。試合で負けてばかりでおもしろくないだろうなと思いましたが、『こんなワザができた、あんなワザもできた』と、兄と競い合って楽しんでいました。大の負けず嫌いでしたが、身長は低く、クラスではいつもいちばん前でした」
身長がグーンと伸びたのは、菰野町立八風中学校に進学してから。当時、食べ盛りの男兄弟の胃袋はすさまじかった。
「毎朝6〜7合、夕食は7合のゴハンを炊いていたから、10キロのお米が1週間たたずになくなって。食卓はボールを奪い合うグラウンドと一緒でした。から揚げは1.5キロの鶏ももを揚げても競うようにして平らげていたし、ギョーザを120個焼いても、私が食べようと思ったらキレイに消えてました」
長距離トラックの運転手をしている父・智之さんの給料だけでは足りず、都姉子さんはスーパーのレジ打ちなどのパートをして食費を稼いだ。そんな大家族の“事情”を知っていた浅野選手はサッカーを一時諦めようとしていたという。
「サッカー部は県大会で優勝。拓自身も三重県選抜の選手になり、県外からのスカウトもありましたが、強豪校は遠征試合も多く、部費や交通費などが年間100万円くらいかかることを知っていたんです。これ以上、経済的に両親に迷惑をかけられないし、弟たちにもサッカーを続けてほしい。だから、遠慮して地元の高校に進学してサッカーを諦めようと決めていました」(八風中学時代のサッカー部顧問・内田洋一先生)
内田先生は両親と相談する一方で、強豪校の練習に参加させて、サッカーを続けるよう説き続けた。最終的には両親の理解もあり、本人も決断。名門・四日市中央工業高校に進んだ浅野選手は全国高校選手権で得点王になるなど飛躍的な成長を遂げる。’13年、高校卒業と同時にJリーグのサンフレッチェ広島に入団。浅野選手は会見で「きょうだいが多くて苦しい中で育ててくれた両親に恩返ししたい」と語った。
「拓はプロ入りしてから毎月10万円を家に入れてくれるようになりました。弟の大学進学費用も助けてくれて。家の軽自動車がボロボロだからと、ミニバンのステップワゴンまで買ってくれたんです。今では家族でこのバンに乗って拓の応援に行ってます。きょうだいの誕生日にも忘れずに、弟たちにはサッカー道具を、妹にはオモチャをプレゼントしてくれます」
都姉子さんも、誕生日には腕時計やコーヒーメーカーを贈られたという。
「なによりもうれしかったのは、拓が20歳になった誕生日に『ただいま二十歳になりました。産んでくれてありがとうございます』とメールを送ってきてくれたこと。ずっと放ったらかしだったのですが、どうしてこんなやさしい子に育ってくれたのか……」
大家族の“絆”に支えられた浅野選手。愛する家族への次のプレゼントはリオ五輪でのゴールとメダルにちがいない。