首都圏を含め全国28カ所で、保育所や託児ルーム、ベビーシッターなどの保育事業を展開する株式会社マミーズファミリー。その代表取締役である増田かおりさん(49)は、日本の大手保育企業の社長のなかで唯一の保育士だ。そこに誇りもある。
「企業がやっている保育所の多くは、ビジネス商品として、保育サービスを提供しますが、私はまず、お母さんたちを元気にしたい。お母さんと寄り添い、どうやったらそれぞれの要望に応えられるかを考えるところからサービスが生まれてくるんです」(増田さん・以下同)
ぽっちゃりした体形から「ビッグママ」と呼ばれる彼女は、’63年11月、愛媛県松山市で生まれた。母(享年56)は美容院を3店舗経営する多忙な美容師。父は郵便局員(享年74)だった。増田さんが保育士になりたいと思ったのは4歳のとき。
「美容院のお客さんが赤ちゃんを連れてきたから、面倒をみたら、大人たちにすごく褒められたのがうれしくて」「母が反面教師でした。私は、母のような仕事中心の母親にはならない。保育士の勉強をして、いいお母さんになるんだって思っていました」
23歳になるころ、3年勤めた保育所を辞め、独立して学童保育を始めた。担任した子どもたちが小学校に上がってから「鍵っ子」になってしまうのが心配だったのだ。26歳で高校の同級生だった一孝さん(49)と結婚。翌’90年、27歳で長女(22)を出産。長女は育てやすかったが、’93年に生まれた二女(20)は手ごわかった。近所まで聞こえるほど大声で泣く。泣きだすと止まらない。いつも機嫌が悪かった。
二女出産から半年、増田さんは多発性神経炎を発症。育児ノイローゼだった。手足に運動障害やしびれ、痛みなどの感覚障害が起き、ひどいときにはコップを握ることさえできなくなった。そんな増田さんにある日、近所の友人が「子ども、あずかってあげるから、ひとりで病院に行っておいでよ。ついでに買い物でもしてきたら」と声をかけてくれた。出産後初めて、ひとりで歩く松山の街。涙がハラハラとあふれ出した。
子どもを預けて街歩きをする開放感。家に帰ってきたころには、すっかり心が楽になっていた。「そうだ、私のようなお母さんは、きっとほかにもいるはず」「そんな人たちのために保育所がしたい」これがマミーズファミリーの始まりだった。当初は、お母さんの相互助け合い的な「託児サークル」として発足。そこでママたちの苦境を聞くにつれ、「24時間対応できる保育所を始めなければ」と増田さんは決意する。
夫・一孝さんに保証人になってもらい、銀行から1千万円を借りて、’96年12月、託児ルーム「キッズパオ」が船出する。24時間360日、生後2カ月から就学前までの子どもを預かる施設だった。障害や疾患を持つ子どもたちも請け負った。増田さんは、このころからドイツのシュタイナー流幼児教育を取り入れた。「テストのない教育、偏差値のない教育、自由への教育」として、紹介されはじめた教育理論だ。
増田さんの情熱に反発もあった。県立病院の院内保育所の運営を引き継いだとき、それまで公務員として働いていた保育士たちがいっせいに辞めた。「マミーズファミリーの方針についていけない。もっと待遇がよくならなければ、そこまで働けないと言われました」。そのとき、すでに会社の一員となっていた夫の一孝さんは、「僕たちの保育は“保育業界の黒船”みたいなもの。みんなにわかってもらおうと思うなよ」と慰めた。
「本当は子どもを育てるって、すごく楽しいことのはずなんです。子どもがいる暮らしを幸せだと思えない、安心して子どもを産めないのは、人が尊重されない社会だからじゃないでしょうか。経済的な理由やマンションが狭いなどの物理的理由は、私には二次的なものに思えるんです」
身なりにいっさいかまわなかった増田さんが、最近、オシャレになったと評判だ。上品なスーツに身を包み、きれいに化粧をし、携帯電話はコテコテにデコっていた。また、昨年から大学院に進学し、勉強をし直している。
「いろんな自分を楽しもうと思ったの。いまは、別の会社を経営している主人に5年ほど前、『おまえボーイフレンドつくれ』って言われたの。『このままだと女枯れてしまうぞ』って。そうか! もっと健康や精神、家庭に目を向けたビッグママ像をつくろうと思って、意識的に時間をつくってます」