NHK連続テレビ小説『あさが来た』では、主人公白岡あさ(波瑠)が成澤泉(瀬戸康史)とともに、日本初の女子大学校設立に向けて奔走する姿が描かれるが、実在したあさのモデル・広岡浅子も日本女子大学校(東京都文京区)の創立に尽力している。1903年、浅子は在学生たちに向けてこう発言した。
「第1回卒業生に世の中の人は、いかに立派な女子が出るかと期待している。あなた方が失敗すれば学校全体の失敗です。それは日本女子教育の失敗であり、国家の進歩・発達に関わる。あなた方の責任は重大です」
浅子は初代校長の成瀬仁蔵と、女子の高等教育によって広く“社会に貢献できる人材”を育てようとしていた。日本女子大学前学長で、同大の同窓会組織である日本女子大学教育文化振興桜楓会理事長の蟻川芳子さんと、前理事の山中裕子さんが、初期の卒業生の中でも明治の女性実業家・広岡浅子の“後継者”とも言える、その道の先駆者たちについて教えてくれた。
【初の薬学博士・鈴木ひでる】
愛知県の塩問屋に生まれた鈴木ひでるは教育熱心な父親に育てられ、創立7年目の7回生として教育学部に入学。在学中より日本の薬学の祖である長井長義博士に教わる。
「学内の香雪化学館は“不夜城”といわれ、夜中まで実験が続いたそうです。鈴木先生は、いつも髪をひっつめ割烹着姿、浅黒い肌で“石炭女子”というニックネームもあったとか」(蟻川さん)
1937年、49歳のときに、実験に5年をかけた論文「レモンヂソ揮発油成分ペリレンの構造」を発表。日本女性では薬学博士第1号となった。口癖は「勉強しなさい」だった。学ぶ環境を与えてくれた学校に恩返しをしたいと後輩には厳しく接したようだ。
【初の女性帝大生・丹下ウメ】
丹下ウメはひでるの6年先輩の1回生。4歳のとき、つまずいた拍子に手に持っていた箸で右目を突き刺し失明するという悲運に見舞われた。
「将来結婚できないのではないかと心配したウメの姉が、学問で自立してほしいと支援したそうです」(蟻川さん)
故郷の鹿児島で小学校教諭をしていたが、28歳のときに一念発起して上京。成瀬の信頼も厚く、寮監まで務めた。卒業後も大学で研究を続け、40歳で東北帝国大学理科大学(現・東北大理学部)に入学。さらに栄養学こそ女性にもっともふさわしい学問と考え、48歳のときに渡米し、54歳でジョンズ・ホプキンス大で学位を取得。帰国して日本女子大の教授となり、67歳にして農学博士の学位を取得した。
「生涯を研究に捧げた“リケ女”第1号です。後進の育成にも尽力しましたが、講義は流暢な英語と鹿児島弁が交じって、聞き取るのが大変だったようです」(蟻川さん)
【ジャーナリスト・小橋三四】
女性も意見や考えを積極的に発信していくべき−−。そんな浅子の“視点”を受け継いだ卒業生といえば、1回生で国文学部卒の小橋三四。
「彼女は卒業後、成瀬先生の要請によって、桜楓会の機関誌『家庭週報』の編集者となりました」(蟻川さん)
三四は、浅子が毎年、御殿場の別荘で開いていた夏季勉強会にも参加していて、浅子に当時教師だった市川房枝を引き合わせている。これが、後に婦人参政権を訴える政治家となった房江に何らかの影響を与えたことは間違いない。1915年、浅子の援助を受けて三四は『婦人週報』を創刊。1917年には浅子の自伝『一週一信』も出版した。
「三四は、浅子さんのような先駆者の声をメディアを使って広め、女性の地位向上を訴え続けました」(山中さん)
私立の女子大学で理学部があるのは日本女子大学だけというのも、丹下ウメらの活躍があったからこそ。浅子と成瀬が見た夢は、しっかりと現在へとつながっている。