過酷な原発事故でいまだに10万人近くが避難生活を強いられる福島県。本誌が事故後に出会った家族もこの5年間、常に選択の岐路に立たされてきた。「どこに住む?」「何を食べる?」「不安を話していいの?」そんな苦しみのなか、支えてくれたのは、身近にいる家族−−。
「“吾妻おろし”で、この時期は格別、風が冷たいんです。寒いですから中へ。ここが私たちの今の家です」
そう、川井美香さん(41)が招いてくれた二階屋は、福島の街を見下ろす高台にあった。川井家の子供たちは4人。長女(16)は福島の県立高校1年生、次女(12)、長男(10)は、川俣町に移転した飯舘村の仮設小学校へスクールバスで通っている。末っ子の佑理くんは4歳。記者が初めて川井夫婦を取材したときには、美香さんのおなかの中にいた。
東日本大震災時の川井さんは、夫婦でJAそうま飯舘総合支店に勤務。その1年半前に、家を新築したばかりだった。
福島第一原発から30〜40キロの飯舘は、当初、一部が「屋内退避地域」にひっかかっただけ。原発により近い地域の被災者を受け入れる側だった。ところが、15日になって、事態は一変。村の1時間あたりの放射線量が毎時44.7マイクロシーベルトを観測し、飯舘の名は、世界に知られることとなってしまう。
震災から1カ月後の4月11日、美香さんはマスクをし、終始、うつむき加減だった。かかりつけの産婦人科医院が被災して閉鎖し、転院先で初めての診察を受けるという。マスク越しにのぞく目は充血し、頭痛がするのか、ときどきこめかみに手を当てた。
「妊娠5カ月です。今、産んで大丈夫かな、放射能の恐怖はいつまで続くのか、そのなかで赤ちゃんを育てていける?結局、私たちは人体実験をされているんじゃないか、そんなことまで考えてしまう」
震える声で「産まない選択も考えました」と打ち明けた。次の日、診察後の表情は、少し明るくなっていた。「赤ちゃんのエコーを見たら、『大丈夫かな』って楽観している自分がいて。元気に産んであげたいと思いました」。一家はその年の6月、福島市内のアパートに移った。
11月、美香さんに携帯電話を入れると、受話器の向こうで元気な赤ちゃんの声がした。「おかげさまで、9月に無事生まれました。男の子でした」。それが佑理くんだ。母乳で育てているという。
「夫が放射能の影響などのデータを調べ、夫婦で相談して、不確かな数値に悩むよりスキンシップを優先しようと決めました。福島で生活する以上、ある程度は受け入れ、そのうえで何がいいかをそのつど、判断するしかないと思います」
力強い言葉に、わずか半年間での彼女の変化に驚いた。
’12年9月、国の除染が始まった。川井一家は10月、今の高台の家に引っ越し、夫・智洋さんは南相馬に移った職場に、往復130キロ、片道1時間半かけての通勤となった。美香さんは大きな決断を迫られた。佑理くんが1歳になると同時に、育休が終わる。職場に復帰すれば、帰宅は、どんなに早くても夜7時半過ぎ。子供だけで留守番させるのは、やはり心配だった。
「仕事を辞めれば、家計的にかなりのダメージ。でも、それよりも私自身の気持ちです。金融や共済を担当し、20年近く働いてきて、地域の人との関係もでき、毎日が充実していたんです。それがなくなるなんて想像できなくて」
それでも、決断せざるをえなかった。「でも、でも。やっぱり仕事を辞めたのは今でも残念です」。震災さえなかったら、美香さんは子育てをしながら、定年まで勤め上げるつもりだった。そんなささやかな夢をも、原発事故は奪っていった。
美香さんは、昨年7月、飯舘に唯一オープンしたコンビニでパートを始めていた。避難先から戻ってきた飯舘の懐かしい人と、コンビニで再開することも増えたという。
「ただ、これからどれだけ飯舘の人間が戻ってくるんでしょうね……」
除染が進んでも、飯舘村の放射線量はまだ高い。村は来年4月の学校再開を目指しているが、まだ、子供を通わせられるレベルではないようだ。
「道路脇には黒い除染ゴミを詰めた袋が積まれ、除染や建設作業の車両が行き交うなかを通学させるのは、おかしな状況だと思います」
子供たちを守るため、美香さんは故郷に戻る気はない。
「今の私の家は家族がいる福島市の家。家族がいる場所が、故郷です。飯舘を忘れたことはありません。でも、今は福島で、この状態で頑張ります」
原発事故に翻弄された家族は、5年たってようやく、前を見据えて歩き始めた。