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「あなたも、もっと早う、来とったらよかったのにねぇ」

 

取材の夜。九州最大の繁華街・天神のステーキ店で、カウンター席に並んで座る記者に向かって、彼女はこう言って笑った。

 

「90歳を過ぎたら、おしまいね(笑)。もうね、どんどん、忘れちゃうの。だから、私を取材するなら、せめてあと5年、早く来とかな、だめよ」

 

目の前の鉄板で、200グラムの肉の塊がジュージューと音を立てはじめた。シェフから焼き方を問われると、にっこり笑って、「中くらいで!」。

 

弁護士・湯川久子さん(90)は’57年、29歳のときに福岡市で開業。九州で第一号の女性弁護士だった。それから60年余り。離婚問題や相続問題を中心に、扱った事件は優に1万件以上。卒寿を迎えたいまも現役で仕事を続けている。

 

湯川さんの声は、喧騒に包まれる店の中でも、よく通った。湯川さんの趣味は能楽。弁護士になってすぐ宝生流の先生について、「仕舞(踊り)」や「謡(歌)」の稽古を始めた。高じて自宅に能楽の稽古場まで作り、能舞台にも何度も立ってきたほどの熱の入れようなのだ。

 

張りのある声に、ピンと伸びた背筋……とても90歳には見えない。きれいにそろった白い歯は、すべて自前。少しグレーがかった黒髪も地毛のままで、染めてすらいないという。

 

湯川さんが弁護士になったのは昭和30年代のこと。男尊女卑が当たり前の時代、なかでもその風潮が強い九州だ。完全な男社会の法曹界に、女性として初めて飛び込んだ苦労は、並大抵ではなかったはずだがーー。

 

「言ったでしょ。昔の苦労なんて、もう全部、忘れちゃったのよ」

 

こう言って、ぺろっと舌を出して笑うと、焼きあがったばかりのステーキを、自慢の歯でペロリと平らげた。

 

湯川さんは’27年、熊本県に生まれた。8人きょうだいの次女で、父はやり手の弁護士、母は専業主婦だった。両親にかわいがられ、無邪気に少女時代を過ごしてきた。ところが10歳になるころ、その天真爛漫な表情に影がさす。母が急逝したのだ。

 

「前年の末に妹を出産したのですが、産後の肥立ちが悪く、そのまま亡くなってしまった。私はまだ4年生でした」

 

家の中は、たちまち火が消えたようになった。

 

「生まれたばかりの赤ん坊を含め、子どもがごろごろおりますから、父は相当困っとったのでしょう。親戚の勧めで、夫を亡くしていた母の妹が、母が死んですぐ、私からしたら叔母が、新しい母になったんです」

 

継母には2人の子がいた。いとこたちが湯川さんの新しい姉と妹になった。

 

「新しい母はどこか冷たい感じがしたし、一つ違いの新しい妹は勝ち気で私とよくぶつかって。わがままいっぱいに育った私は、だんだん暗くなっていきました」

 

時を同じくして、日本も暗い時代に突入する。同年、日中戦争が勃発したのだ。

 

「大人も子どもも皆、日本が絶対勝つと信じてましたよ」

 

湯川さんが女学校に進学して間もなく、一家は中国・上海に移住。大都会の上海は、戦争景気に沸いていた。しかし、日本の戦況悪化とともにバブル景気は衰退。日本は負け、湯川さんは家族とともに故郷・熊本に引き揚げた。

 

「戦争に負けたのはショックでしたが、アメリカさんのおかげで日本も男女共学が始まって。私は父に『東京の大学に行きたい』と宣言しました」

 

向上心に燃えていたわけではない。折り合いの悪い新しい母や姉妹がいる家から、逃げ出したかったのだ。

 

「父は私のもくろみを見抜いていたんでしょう。文学少女だった私に、『法学部に行って弁護士か裁判官になるなら大学に行ってよし』と」

 

家を出ることを優先し、しぶしぶながら中央大学法学部に進学。女子学生は、わずかに4人だった。大学を卒業した湯川さんを待っていたのは、鬼教官と化した父のもとでの、司法試験の猛勉強だった。

 

「司法試験合格が大学に行く条件でしたからね、1日10時間、机に向かわされました。さらに、福岡の大学の研究室でも勉強を続け’54年、やっと司法試験にパスしました」

 

この試験勉強の最中に、運命の出会いがあった。

 

「大学の先生の助手に、ひと目ぼれしちゃったんです」

 

相手は5歳年上の洋さん。彼もまた法曹界を目指し、司法試験に挑んでいた。湯川さんが司法試験をパスした翌年の夏、2人は結婚。湯川さんは27歳だった。

 

「でも夫はまだ試験に通っとらんかったから、結婚も『合格するまで待ってくれ』と言われたんやけど、私は『待てん』と答えて(笑)。でも結局、待たんでよかったです。夫はそれから10年受け続けたのに、通らんかった。私と違って頑固なんが、いかんかった(笑)」

 

やがて長男、長女と2人の子宝にも恵まれた。

 

’57年、弁護士として開業すると、湯川さんは地元のちょっとしたスターになった。“九州初の女性弁護士”には取材が殺到。地元紙ではコラムの連載も持った。その土地柄か、九州第二号の女性弁護士の登場まで、10年がかかった。湯川さんの30年後輩で、長年の仕事仲間である稲村鈴代弁護士が言う。

 

「女性弁護士が出始めてから、湯川先生は毎年、女性の新人に声をかけて一緒に仕事をしていました。私もそうやって経験を積ませてもらったんです。母に『湯川先生と一緒にやらせてもらえる』と伝えたら、大喜びでした。先生と同世代の九州女にとって、弁護士第一号の湯川先生は、憧れの存在だったんです」

 

昨年秋、湯川さんは長年の弁護士生活で培った生きる知恵を1冊の本『ほどよく距離を置きなさい』(サンマーク出版)にまとめた。すでに12万部を超えるベストセラーだ。湯川さんは本の中で、長生きで得た歳月を「ご褒美の時間」と呼んでいる。それは、「長生きは楽しい」という単純な意味ではない。

 

「年を取るのは、やっぱりつらいよ。体はしんどいし、聞いたそばから忘れてしまうし。でも、みんなそうなんだから。しょうがないと思えば、大丈夫なものよ。それにね……」

 

湯川さんは、継母から「長生きのご褒美」を受け取ったという。長年のわだかまりが、継母の晩年に解けたのだ。

 

「厳格な父の後妻となった継母の苦労は並大抵ではなかったはず。でも、子どもだった私は自分のことばかりで、ずいぶんひどいことも言ったでしょう。それでも、私が司法試験に合格したときは誰よりも喜んでくれた。いまとなっては『母』といって思い浮かぶのは実の母ではなく、2番目の母の顔なんです」

 

湯川さんは継母にずっと仕送りを続け、時間が許せば顔を見に出かけた。継母が長生きしてくれたおかげで「関係を結び直すことができた」と、湯川さんはいま、とても心穏やかだ。

 

そして、湯川さんが長生きしたことで、6年前に他界した最愛の夫から、いまも“ご褒美”が届けられている。

 

「大学教授だった夫の遺族年金に、ずいぶん助けてもらっています。あと4年生きれば、私が養っていた新婚時代と、夫の遺族年金をもらう期間が、おあいこになるとですよ」

 

こう言って、湯川さんは無邪気に笑う。

 

「だから私、あと4年は、長生きせんといけんの!」

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