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『女性自身』が創刊されたのは’58年12月。以来、本誌は皇室ご一家の“愛”にまつわるエピソードを読者に紹介してきた――。

 

創刊直前の11月27日、宮内庁が《皇太子妃は、正田美智子さんに内定》と発表し、日本中が湧きたった。まさに本誌はミッチー・ブームとともに誕生したのだ。

 

創刊まもないころに掲載したのは『ご結婚五日前の素顔』(19号・’59年4月24日号)。お輿入れを間近にした美智子さまと父・正田英三郎さんがお庭でキャッチボールをされている姿を撮影した。

 

本誌で半世紀以上にわたって皇室記者を務めていた、故・松崎敏弥氏は「結婚目前の娘と、父との心情が、行き来するボールに象徴されていたと思います」と語っていた。

 

美智子さまのご成婚は、初めて「一般家庭出身」の女性が皇室に嫁ぐという“歴史的事件”だった。そのご決断について陛下自ら意見を寄せられたこともある。『皇室への二つの意見に私から答える/談・皇太子明仁親王殿下』(342号・’65年8月30日)だ。

 

《上流旧華族以上の家から、妃をとらないとしたことは、遺伝的な考慮ばかりでは決してなかった。国民と共に考え、共に生きる伴侶としての人を求めていた。これは旧華族上流以上の人には、求められない姿であった。現在、美智子の、常に日本国民のことを考え、自分のつとめに忠実たらんとしている姿をみて、この自分の考えが間違っていなかったと感じている》

 

ご学友でジャーナリストの故・橋本明氏を通じて本誌にコメントされたものだが、皇太子の立場にある方(当時)が、週刊誌に自らのお気持ちを語られるなど、前代未聞のことだった。

 

陛下が“美智子さまを選んだ理由”を明かされたのは、これが初めてだったが、本誌は後に、選ばれた美智子さまが胸の内をつづられた手紙も入手し、『皇城の人びと総括編 十三年目の美智子妃殿下』(638号・’72年1月1日・8日合併号)で、その一部を紹介している。

 

《「家庭を持つまでは絶対死んではいけないと思った」と、お話し下さった時、私はいままでの自分の見聞の中にも、読みました小説の中にも、このように寂しい言葉はなかったと思いました。そしてその中を二十五年間お歩みになっていらした東宮さまのおために、力をつくして、あたたかい家庭をお作りしたいと思いました》

 

育児についての美智子さまのお考えも、この手紙には記されている。

 

《手元で育てさせていただくとすれば、それはもう皇后さまのお時代と違う形をとることになってしまいますし、それから乳人(めのと)の問題も――》

 

‘60年2月23日、皇太子さまがご誕生。美智子さまは手紙につづられたとおり、乳母制度も廃止し、皇室で初めて母乳だけの育児を実践された。

 

東宮侍医長を務めた佐藤久氏が撮影していた写真を、33年ぶりに入手し、公開したのが『33年間、秘められていた“皇室史上初”写真!』(1636号・’93年3月2日号)。ご公務がお忙しいときなどは前もって搾乳され、冷凍保存したものを、哺乳瓶で授乳されることもあったという。

 

お手紙の《力をつくして、あたたかい家庭を》というお言葉どおり、美智子さまはいまも陛下を守られている――。

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