今年1月22日、福島のカリスマ産婦人科医が逝った。原発事故後、余命5カ月の末期がんと診断されても、産婦人科医がいなくなった南相馬市で診察を続けた高橋亨平(きょうへい)先生(享年74)だ。
大地震の後、福島第一原発が12日から立て続けに水素爆発を起こした。亨平先生の医院は原発から25キロ圏内。市はバスをチャーターし、近県に順次、住民を避難させていた。亨平先生は、患者が来るだろうと医院に残った。だが物流は途絶え、薬剤の供給も止まり、病院の存続さえままならず、震災10日ほどで亨平先生もいったんは避難した。
スタッフが避難できるようにと、病院を閉じたはずだった。ところが、当のスタッフたちがほかの施設で医療活動する姿が、ニュース番組に映ったのだ。亨平先生は「すぐに病院に戻るぞ」といい、わずか2日ほどで南相馬市に戻る。すると、医療スタッフも戻ってきた。「やっぱそうなるよね」「先生は帰って来ちゃうよね」と20年来のスタッフは笑った。
医院再開の噂はすぐに広まった。緊急時のことで、さまざまな症状の患者が来たが、専門外だと門前払いした患者は一人もいない。そのうち健康な人もやって来るようになった。常に開いている病院が拠点となって、食料などの物資が集まり始めたのだ。カップ麺、水、パン、レトルト食品、衣類まで、病院に来れば手に入る。
医師として八面六臂の活躍をする一方で、亨平先生は、南相馬市の放射線量を調べ、線量の高い地域の妊婦さんには出産までの入院を勧めた。また、ガスの供給がストップすると聞けば、経済産業省に直接電話し、交渉した。亨平先生は行動し続けた。当時の亨平先生の口癖は、「行動を伴わない学問に価値なんかない」だ。
大震災から怒涛のような2カ月が過ぎたころ、亨平先生は体の異変に気がついた。福島市の病院で検査を受けると余命5カ月の末期の大腸がんだった。しかし、数日、落ち込んだ様子を見せただけで、亨平先生は診察を続けた。同時に、地域の放射能対策に奔走することもやめなかった。亨平先生の呼びかけで、南相馬除染研究所が立ち上がり現在にいたる。
その活動内容は、放射線のモニタリングや除染だけにとどまらない。《自然エネルギーの開発実践、バイオテクノロジーの研究、放射線医学研究所の誘致、農地の除染研究、ビル、ハウス、炭酸ガス農業、水耕栽培、沿岸陸上での養殖漁業の研究、ロボット工学等、全ての分野に亘って研究を実践し、世界に冠たる研究所を作り、南相馬市の復興に貢献することにある》と亨平先生は文章を残している。
そこには亨平先生の未来への夢がぎゅうぎゅうに詰まっていた。最後まで、南相馬の子供たちのために、未来のために亨平先生は闘い抜いた。そして1月22日午後6時33分。家族や仲間たちに見守られ、亨平先生は静かに息を引き取った。
最後に『亨平語録』を――「ここに住んで、自分たちで復興する。それが地域の財産になる」「震災前の幸せに戻りたいというモノサシのままで不幸になるなら、幸せの測り方を変えるべきだ」「正しく恐れて、自分の知識で放射能と向き合うことが大切。過剰に恐れることで余計に不健康になる」「南相馬市の復興計画の中で最も重要な課題は、未来であり夢である」