東日本大震災で633人の犠牲者が出た宮城県山元町。災害危険区域にありながら、津波で流された元の場所に自宅をリフォームした女性3人家族がいる。祖母の言葉に引っ張られ、三者三様の故郷への思いを胸に秘めながら再建を決心するまで――娘ニコ・ニコルソンのマンガ『ナガサレール イエタテール』で話題になった被災地で生活を作り直す家族の姿を追った。
あの日、母(58)は、年末から腰骨を折って療養中の婆(83)を車に乗せ、整骨院に向かう途中で地震に遭った。大きく道がうねるほどの揺れに、自宅が心配になって引き返す。自宅へ戻ると、サッシが外れ、食器が割れ、婆が丹精していた植木鉢が割れていた。大阪にいる母の弟に無事を知らせる電話をかけたその直後だった。門の近くで、水がパシャパシャと波打っている。
「まさか……。津波? 婆、早く上に逃げて!」キョトンとする婆のズボンのウエスト部分をグッと持ち上げた瞬間、ドッカーンと轟音とともに、津波が家の中まで押し寄せた。いきなり視界が真っ暗になった。
「気がついたら天井が見えていて、婆がタンスにつかまっていた。タンスの上に上がって婆を助けようとすると、無我夢中の婆が私の頭をつかむから、水に潜らされてさぁ~」
なんとか2階に避難したが、水は引かず、布団にくるまって一夜を明かした。翌朝、婆と母は山側にある中学校へ歩いて避難した。ひとまずホッとしたのもつかの間、婆に異変が起きた。きょとんとした顔で、母を見つめた婆は言った。「あなた誰?」
震災と避難生活のストレスで“せん妄”という症状が出てしまった婆。一時的ではあったが、婆の認知症はそこから一気に進んだようだ。その後、川崎の叔父が車で2人を迎えに行き、川崎の叔父夫婦の家に連れ帰った。震災から2週間。東京にいた娘のニコさんは2人とようやく再会できたのだが、無事を喜び合うどころか、疲れきった2人の重苦しい雰囲気に気おされた。
いつもドライな母が、感情むき出しの涙声になっている。常に家事をこなしてきた婆は膝をかかえ、窓の外を、ただボーッと眺めていた。そして「皆、津波で死んじゃった。戻りたい。山元に戻りたい。戻ればきっと誰かいる」と泣いた。しかし、4月に入って、様子を見に帰った山元町の家は惨憺たるありさまだった。部屋は1メートル以上、ガレキと泥に埋まりとても戻れる状況ではない。
6月、婆と母は、山元町の仮設住宅に入居した。津波で生き別れていた茶飲み友達と、仮設で再会した婆は、川崎でふさぎ込んでいたのが嘘のように、すぐに元気をとり戻した。その夜、仮設の5畳で女3代、久しぶりに川の字で寝た。婆のイビキにニコさんがまんじりともしないでいると、母がポツリとつぶやいた。「……家、建てるか」
母と娘が協力して、山元町に、家を再建することになった。建設費用は、婆がかけていた地震共済から、家財保険を合わせて2千万円おりることがわかった。しかしその直後、母の子宮体がんが見つかった。宮城県内の病院での手術は成功したが、リンパへの転移がみつかり、抗がん剤治療が必要となった。看護が必要のため、抗がん剤治療は川崎で受ける。
3回目の抗がん剤治療が終わり、すっかり髪が抜けた母を見て、ニコさんはもう一度、家について考えた。こんな状態で、家を建てていいのか? 認知症の婆を、病身の母に介護させていいのか? 電車も通らず、ご近所さんもいなくなった地元に2人を戻すのは正解なのか? 自分の正直な気持ちを母にぶつけた。母はしばらく考えこんでいた。そして、言った。
「老い先も短い婆が、帰りたいというなら、私は元の場所に戻してあげたい。あの家は、婆のピラミッドでいい。私は婆の墓を守る」
ニコさんの心も決まった。昨年6月、リフォームの本契約を交わし、総額2千500万円の契約書に判を押す。9月。母の腫瘍マーカーが下がって、抗がん剤治療は無事終了。同時に、工事が着工した。震災から2回目のクリスマスに、ついに家が完成する。生き生きと、家の中を動き回る婆を見て、母と娘は目配せし合った。
ニコさんは、家を立て直した顛末を、ギャグを交えて描いた『ナガサレール イエタテール』が話題となり、マンガ家としての地位を着々と固めつつある。母の病状も安定した。いつもどおり会社に通い、月に1度は検査を受ける。婆は週3回、デイサービスに通うようになった。とはいえ、ニコ家も100%安穏ではない。町の復興計画の一環で県道が通るかもしれず、その場合、家とぶつかってしまうのだ。まさかの移転?
「そう。ありえない話じゃないんです。そうなったら『ナガサレール イエタテール』の続編で『道デキール家ウツール』を描かせていただきますけどね。いや、冗談。ネタがないほうが幸せです」
震災後2年以上たったのに、迷いも課題もたくさんある。けれど、ニコ家は地元で、当たり前の日常を紡いでいく。そこが家族の場所だから。家族と過ごすために戻る場所なのだからーー。