「親や友人からは『大丈夫?』『なんで福島なの?』と心配もされましたよ」
そう話すのはフルーツビールの店「gohoubi」(福島県いわき市)の店長・山越礼士さん(40)だ。出身は長野県。大学卒業後、会社員を経てイベント・ディレクターの仕事をしてきた彼が、いわきに移住したきっかけは、石巻でのボランティアだった。3日間、民家の側溝のドブさらいをした。1軒の側溝が丸々2日やっても終わらない。復興がどれだけ途方もないことか、実感した。
「何か自分にできることはないのか」、漠然と考えるようになっていたところに、東京の仕事仲間から声がかかった。「いわきの復興商店街での出店を手伝ってくれないか」。
もともと、昭和レトロな飲食店街だった「白銀小路(しろがねこうじ)」。震災で営業できなくなった地元オーナーや起業家が集まって、新たに「夜明け市場」として再建するという。山越さんは現場に寝泊まりし、築40年以上のスナックの改装を手伝った。
’11年末「gohoubi」が完成。飲食店の経験など皆無だが、他店の店長が「やまちゃん、いっしょにやろうよ」と言ってくれた。それで決心がついた。
「知り合って数カ月の、余所者の僕に声をかけてくれたんです。警戒区域から避難してきた彼に『いっしょにやろう』と言われて、もう迷ってる場合じゃないなと思えました」
カウンターの後ろには、フルーツビールや世界のビールが30種類以上並ぶ。人気メニューは、いわき産サンシャイントマトを使った“トマト餃子”。考案したのは山越さんだ。
「風評被害で、福島産の農産物の売れ行きが落ちていました。きちんと検査をし、情報を公開している農産物をつかって、少しでも生産者の支援ができないかと考えたんです」
お客さんの背景はさまざまだ。「あるとき、原発の避難者は補償金をいくらもらってるとか、そんな話になって」、たまたま来ていた避難者が、ひっそりと帰っていったことも。「つらかったですね。だから僕は、いつも笑顔でいよう。そう心がけています」。
3・11直後に福島市に移住し果樹園を始めたのが、大内徹也さん・美千代さん夫妻。ともに38歳。和歌山生まれの徹也さんは三重県の大手スーパーで青果担当をするうち、自分で果物を作ってみたくなっていた。三重で生まれ育った美千代さんと30歳で結婚。農家になる夢を2人で育んだ。
’10年、東京開催の農業フェアに参加。そこに、福島県果樹研究所の講習生募集の案内があった。夫婦は福島での就農を決めた。講習開始は’11年4月。その直前、震災は起きた。
「とにかく行って、自分の目で見てみたい。後のことはそれからと思いました」
果樹研究所の講習は例年通りだったが、唯一違ったのは、研修先の畑で“除染作業”があったことだ。1年間の講習後、農家での研修を経て、畑を手に入れたのが’12年秋。最初に借りた畑の面積は150アールだった。
就農には最悪のタイミング。離農し、町を離れる人も少なくない。風評被害で農作物の価格は暴落。つらい福島の現実を、夫婦は講習の間、目の当たりにしてきた。
「でも1年間勉強して、農家さんや講習生の仲間が、福島を復興させたいと頑張っている姿を近くで見てきましたからね。そのなかで、ポッと1年だけ福島に来て、後は山梨や長野で果物を作るってことが、自分の気持ち的に、どうしてもできなかったですね」
苦労は重々覚悟のうえ。福島の仲間と一緒に、苦楽を共にしたい。夫婦は自然、そんな気持ちになっていた。
「最初は皆、遠くで見ているだけでしたけど。でも、仲よくなると、とことん優しいんです、こっちの人って。特に用がなくても顔を見ると『お茶飲んでけ』って」
“変わり者夫婦”といぶかしがられた時期はとうに過ぎた。「余所者でも一生懸命やっていると、周りの人が見ているんですね。『変わってるけど、本気だ』って」。そして……。
「私ももう年だから、あんたがやってくれないか」「うちの畑も借りてくれよ」と、そんな声が広がって、農地もどんどん広がった。気がつけば、大内果樹園は250アールまで拡大。収穫量も桃だけで年間11トンに。畑は4月中旬〜下旬に、桃とりんごが花開き、一面ピンクに染まっていくーー。
こうして、さまざまな移住者の力が、震災で疲弊した福島を活気づけている。