巡り愛 TOHOKU①
松葉杖のカメラマンが、追い続けた東日本大震災
-そもそもの東日本大震災の被災地へ撮影に向かった動機を教えてください。
吉田 最初は行くことが出来なかったんです。けれどあれほどの震災があってドキュメンタリー写真を撮っている人間として、撮影に行くことは本能ではないかと思うんです。とにかく行って記録を撮りたいと思ったのが正直な気持ちです。それは、どうしようとか、誰のためにというよりも、とにかく行きたかったんです。で、どのようになっているのかを自分の目で見るというか、カメラマンとしては、撮影し確認しに行きたかったんです。
-実際行ってみてどうでしたか?
吉田 想像と違ったのは、もっとボランティアとか警察とか自衛隊がいっぱいいて復興活動をしてるのかと思ったんです。ところが、がらーんとしていて道も規制されているから、ほんと町としての息が止まっちゃったみたいだったんです。で、そこに入って行ってもガレキを撮れなかったんですね。最初は何を撮っていいのかわからなかった。ぐるぐるまわったけれど、シャッターを押せなかった。
テレビ局の人たちは復興活動をしている所をさがして流すから、テレビを見ていると活発に復興活動をしていると思うじゃないですか。でも、実際はそうじゃなかったっていうことがショックだったですね。スタートラインが見えなかった。とにかく何を撮っていいかわからない感じだったんです。
-でもそれを続けていく中で復興の足音っていうのは聞こえてきたのですか?それともまだ変わらない感じですか?
吉田 人によっては、かなり個人差もあるし、ゼロからのスタートじゃなくて、かなりマイナスからのスタートじゃないですか。で、そのマイナスからようやく今ゼロになったっていうか、ガレキを撤去して更地にしている。更地っていうのはゼロですよね。でもまだ南三陸町では、ビルの上に車があるし…。だからゼロの地点に立てたっていう人もいればまだまだっていう人もいる。だから最初“希望”なんていう言葉は言えない状態でしたね。“絶望”ですね。
それが自分がけがをした時(高校生の時のラクビ―練習中の頸椎骨折による全身まひ)とすごいリンクしたんですね。手も足も動かなくてベッドに寝ていて、それで「希望?希望ってなに?俺は手も足も動かないよ」って思っていて。その時に死ぬか生きるかの選択で、僕は生きるっていう選択をしたけれど、でもその時って悲しいとか苦しいとかじゃなくてそう決めたらとにかくやるしかないんです。
日本中が被災地を応援してくれてたし、その時は家族を亡くしていても頑張っていたと思うの。で、そのあと避難所で共同生活をするわけじゃないですか。寂しさっていうのは、意外と1年くらいしてから来ると思うんです。例えば僕の場合だったら杖をついて立ち上がった時に、「もうラグビーができない」って自覚をした時に“絶望”を感じたんですね。“ラグビーがまたできる”“ラグビーをやるんだ”っていうのが“希望”だったけれど、“もう2度とラグビーは出来ない”ということを受け入れて初めて新たな“希望”って見えてくるわけじゃないですか。だから被災地の人たちも家族が亡くなって家が流されて、財産もなくって新しい生活っていうのを受け入れきれないと思うんですよね。
でも、それを受け入れないと先に進めないっていうのが今の状況だと思うんです。だから必ずしもみんなが希望をもって頑張っているかといったら…もちろん頑張っている人もいるけれど、現実はいろいろなことがあると思うんです。その時、僕たちが思う“障害者”という言葉と同じで、“被災者”という言葉のステレオタイプでは可哀そうな人たちが頑張っているっていうイメージだけれど、人間だからいろんな人がいて苦しんたり喜んでいたり堕落もする。
その人間臭さが、僕はドキュメンタリーカメラマンとして写真を撮っているのだから、常に感じていたいんです。みんながいい人なわけじゃない…いい人悪い人って言い方はおかしいけれど、みんなが悩んでたり一歩を踏み出せない人もいたりする。そういう所から、希望の見える写真をもちろん撮っていきたい。だけれども、そうじゃない部分も撮っていきたいっていうことをすごく思います。