名嘉山廣貞さん 画像を見る

 

沖縄戦で鉄血勤皇隊や通信隊、学徒隊として生徒が動員された県内21の旧制中学や師範学校、実業学校のうち私立開南中学校の戦場動員の実態がほとんど分かっていない。慰霊碑建立に向けた名簿作成など検証作業を踏まえ、沖縄戦に動員され、犠牲となった在学生は190人と同窓会は主張する。しかし、これまでの学徒に関する研究では、犠牲者数など開南中学徒の事実関係の多くを「不明」と扱ってきた。沖縄戦から73年。高齢となった開南中の同窓生らは、亡き学友の無念を思い、開南中学徒隊の実態解明を待ち望んでいる。

 

同窓会長の大田朝成さん(90)=那覇市=は「『不明』という表現は絶対に受け入れられない。県が責任を持って調べてほしい」と訴えている。

 

私立開南中は1936年、那覇市樋川に県内初の私立中学校として創設された。初代校長は戦後初の沖縄側の行政機関・沖縄諮詢会の委員長で琉球大学の初代学長を務めた志喜屋孝信氏だった。米軍上陸前の45年3月、開南中の4・5年生は開南鉄血勤皇隊、2・3年生以下は開南通信隊として組織され、62師団や24師団に配属された。それ以外に「開南中生に告ぐ」という張り紙を見て自宅近くの部隊に入隊した人もいたとされる。大半が命を落としたとされている。

 

糸満市にある開南中の慰霊塔「開南健児之塔」には、教師、卒業生を含め279人の犠牲者の名前が刻まれいる。同窓会はこのうち沖縄戦当時、開南中に在籍していた1年生から5年生で犠牲となった190人を「学徒」として扱ってほしいと求めてきた。沖縄戦研究では、実際に沖縄戦に何人が動員されたのか裏付ける資料はないとして、動員数、犠牲者数共に「不明」としている。

 

慰霊塔の建立に尽くした同窓生の名嘉山廣貞さん(88)=那覇市=が1970年ごろ、沖縄遺族連合会で働いていた同窓生の故安森徹夫さんに依頼し、名簿を作成した。13歳の生徒も犠牲となっている。しかし、同窓会側の検証作業は沖縄戦の公的記録には反映されていない。

 

開南中の配属将校が10・10空襲後に不在となったことや、校長が後を託した教頭が各生徒に個別に入隊を指示し、まとまった動員でなかったことなど、他校と異なる事情などが、開南中学徒の実態把握を難しくしている。

 

沖縄戦に詳しい、沖縄国際大学元教授の吉浜忍氏は「実態として開南中の学徒は他の学徒と同じだった。それを学徒とするのかしないのか、議論すべき余地がある。なぜ特殊な事情が発生したのか、個別の学校の事情を検証することは学徒研究を進める上でいいことだ」と話している。 (中村万里子)

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