沖縄戦から73年の慰霊の日、白梅の慰霊祭に柔らかなまなざしがあった。38年前に全国紙で初めて白梅学徒隊を取材した元新聞記者の河内鏡太郎さん(74)は、白梅同窓会会長の中山きくさん(89)の追悼の言葉を聞いていた。読売新聞大阪本社で43年間記者を務めた河内さんは1980年、白梅学徒隊を取材し報じた。当時、沖縄県外ではひめゆり学徒隊は知られていたが、白梅の名はほとんど知られていなかった。河内さんの記事がきっかけで白梅の名が全国に届くようになった。
23日、6年ぶりに慰霊祭に参列した河内さんの姿を見るなり、元学徒の女性たちは「元気ね」「何年たってもあなたのことはしっかりと覚えてるのよ」と駆け寄ってきた。武村豊さん(89)は「河内さんが初めて、白梅のことを世に出してくださった。大変な恩人ですよ。本当にありがとうございます」とほほ笑んだ。
河内さんが白梅を取材したきっかけは、戦争中の女性の痛みや苦しみが、戦後35年たっても全く伝わっていなかったからだ。当時の防衛庁がまとめた戦史双書「沖縄方面陸軍作戦」では、学徒に関する記述はたった4ページだけだった。そこには、ひめゆり以外の白梅や瑞泉、なごらんの死亡者数が記されていた。河内さんは「こんなに多くの女学生が亡くなっていたのを、恥ずかしいことだが初めて知った」と言う。80年5月1日から8月31日までの長期連載で、白梅の悲話を取り上げた。中山さんは「河内さんの書いた記事は宝物よ」と話し、今も自宅で保管している。
河内さんは現在、兵庫県の武庫川女子大学で教壇に立ち、沖縄戦のことを若い学生に語り継いでいる。慰霊祭に同行した3年の今井桃代さん(21)は「沖縄に行かなければ分からなかったことがある。もっと沖縄の問題を真剣に考えていかないといけない」と思いを巡らせた。
この日、河内さんが38年前に取材した元学徒の姿は少なくなっていた。河内さんは「誰かが戦争を止める努力をしなければいけない。それがたとえ大阪であっても、その努力が必要だと思う。授業を通して彼女たちに引き継いでいく」と白梅の碑の前で話した。
河内さんの授業は毎年受講希望者が殺到し、今年は定員の4倍近くの700人が集まった。 (阪口彩子)