キャンプ・シュワブが造成される前に辺野古の浜にあった松の木。左側に見えるのが平島と長島(白黒写真を色付けしたもの)=1950年代、久志村(当時)辺野古(島袋武信さん提供) 画像を見る

 

かやぶき屋根や米軍キャンプ・シュワブができる前の辺野古崎の松の大木―。アルバムに古い白黒写真が並ぶ。新基地建設に向けて土砂投入が続く名護市辺野古。カメラが好きな島袋武信さん(82)は、20代のころから地元を撮り続けた。今では見られない失われた風景が、写真の中だけでよみがえる。

 

島袋さんは、1950年代から地元の風景を撮影してきた。米軍キャンプ・シュワブが造成される際、測量士として働いた。共に写るのは中南部から訪れた作業員だ。島袋さんの屈託のない笑顔は、今も昔も変わらない。

 

辺野古はもともと、陸の孤島だった。昔は食べるものもない時代。山に入ってまきを作り、野菜や米などと物物交換していた。シュワブ造成が始まると、全島から基地建設従業員が訪れ、辺野古の人口は増えた。「増えるどころではないよ。入らんかったよ。みんな自分のおうちを貸すわけさ。ぎゅうぎゅうで生活してた」。映画館や銀行ができ、バス停は辺野古集落に2カ所あった。まきを売っていた時代と比べると、暮らしは豊かになった。「仕事がいっぱいあるから、人がたくさん来てにぎわっていたよ」

 

集落に飲み屋街ができ、米兵相手の飲食店が100軒以上並んだ。島袋さんもシュワブが完成するとダンスホールで働いた。「あの時は外国人が多すぎて手が回らなかった。それでも楽しかったよ」と振り返る。当時、辺野古区がシュワブ建設を求めたとされるが、島袋さんはそれを否定する。「こちらから求めたというのはなかったはずよ。あの時は沖縄中、米軍がいろんな基地を造っていった」。ただ、今も辺野古に住む人で、米軍キャンプ・シュワブを否定する人は少ない。シュワブがあるから辺野古の街ができ、にぎわいを見せた。実際に辺野古の住民も、シュワブや集落の飲食店で働き、生活が成り立った経緯がある。

 

それでも、島袋さんには今後への不安がある。土砂投入が進む新基地建設工事のことだ。4人の息子がいるが、そのうち3人の息子家族は辺野古を離れた。「こっちはもううるさくなるから辺野古には住めないって。本当は、みんな近くに住む方がいい」

 

新たな基地ができたときの暮らしがどうなるか分からない。「うるさくって眠れなくなるより静かな方がいいさぁ。何もない時代だったけど、自然の暮らしは良かったよ。(工事が終わるのは)何十年かかるか分からないでしょう」。写真に写る昔の辺野古の風景が、今も心の中にある。
(阪口彩子)

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