去年まで使えた通貨が今年からドルに。その14年後には円に―。こんなふうに頻繁に通貨が変わったらどうなるだろう。沖縄には、アメリカ統治下の27年で通貨が5回も変わった、いや“変えさせられた”歴史がある。それが基地依存経済をつくり、いまだに所得水準が全国に比べて低い要因である第3次産業の割合の高さにもつながっている。
沖縄が日本に復帰して47年になる5月15日。当時の県民の暮らしを直撃し、今の沖縄経済にもつながる通貨切り替えの変遷を改めて振り返ってみたい。(田吹遥子)
◆戦後の混乱で無通貨から複数通貨(第1次、第2次法定通貨の変更 1945~48年)
米軍が本島に上陸し、軍政府を樹立した1945年4月1日から46年4月15日までの1年間、沖縄には通貨がなかった。戦後の生活を収容所からスタートさせた住民は、着の身着のままの状態。
米軍から無償で支給された食糧や衣類で生活し、軍作業に駆り出された。必要なものは住民同士で物々交換していたが、主に米国製のたばこが価値尺度として利用されていたようだ。
通貨が復活したのは46年4月15日。当時は米軍が発行したB型軍票紙幣(B円)、新発行日本銀行券、5円以上の証紙貼付旧日本銀行券、5円未満の旧日本銀行券および同硬貨―が法定貨幣とされ、4月28日までの13日間でいずれかに交換するよう米軍から布告が出された。住民が戦時中から持っていた旧日本円は回収された。これが戦後最初の通貨交換(第1次法定通貨の変更)だ。
しかしそれからわずか4カ月後。米軍は46年8月5~25日にB円を新日本円に交換するよう命じ、9月1日に新日本円を法定通貨にするとの布告を発表した(第2次法定通貨の変更)。この交換は対等の両替率だったので、交換による価値の変更は起きなかったが、本土からの引き揚げ者が円を大量に持ち込んだ。まだ生産力がなく物がない沖縄に円があふれてインフレが激化。物価が上昇してしまった。
それにしてもなぜ4カ月という短期間で通貨が変わったのだろうか。元琉球銀行取締役調査部長で戦後沖縄経済史をまとめた元副知事の牧野浩隆さんは「当初米軍は新日本銀行券を唯一の法定通貨にしようとしていたが、印刷不足で代用としてB円を発行したのではないか。それを円に戻したということで1次と2次はセットのようなもの」とみている。ちなみに本土でB円は、米軍基地周辺の地域に限定された。
◆基地建設優先のB円時代(第3次法定通貨の変更 1948~1958年)
それから1947年に再びB円が法定通貨に復活し、48年に法定通貨がB円に統一された(第3次法定通貨の変更)。49年5月に米軍による沖縄統治が正式に決定。沖縄は通貨面で日本経済から切り離され、沖縄と本土が別の道を歩むことになる。
米軍が沖縄で真っ先に取り組んだことは米軍基地の建設だった。戦争で何もかもを失った沖縄。いち早く、安く、資材を調達するため、米軍は為替レートを1ドル=120B円とB円高に設定し、輸入を促進した。一方、日本本土では経済発展のために製造業の復興が優先された。こちらでは1ドル=360円と円安で輸出型の政策をとった。
当時沖縄で基地建設に携わったのは清水建設や大林組など今でも大手として名を連ねる日本本土のゼネコンだった。資材を本土から輸入し、沖縄県民が労働力として雇われてドルを稼ぎ、また海外や日本本土の安価な輸入品を購入する。牧野さんは「米軍は戦後復興の初期条件とされた日本と沖縄の経済復興と基地建設を『ドルの二重使用』で一気に進めた」と説明する。ちなみに、当時の日本の外貨保有高の約3分の1が沖縄で稼いだドルだったとも言われている。
米軍がB円に統一したもう一つの理由が沖縄の経済復興だった。B円高にすることで食料品や生活用品の輸入も進み、安価な輸入品が広まった。B円高が住民の生活を助けた一方で、安い輸入品に沖縄産の商品は勝てない。沖縄の起業家たちは輸入品を仕入れて販売する第3次産業へと流れ、製造業をはじめとする第2次産業は育たなかった。第3次産業の割合が高い経済状況を生み出した。
◆外資導入を狙ったドル時代(第4次法定通貨の変更 1958~72年)
基地建設が一段落したこの頃、米軍による強制接収で土地を取られた農民や、基地建設が一段落して仕事を失った人たちであふれた。さて、これからどうやって沖縄経済を復興させるか。米軍が考えたのは外資導入と外資系企業の誘致だった。そのために通貨をドルに切り替え(第4次法定通貨の変更)、沖縄で稼いだ分を自国に持ち出せるように貿易や為替を自由化した。
ドルの切り替えが始まる58年9月15日の琉球新報では当時の当間重剛主席が「世界第一の価値を持つ米ドルを通貨として使用することに基本的な利益をみとめております」との声明を掲載している。
切り替え期間が終わった21日の社説でも「ドルを通貨として使用することにより利点が大きいことは言うまでもないし、通貨切り替えに伴う自由貿易地域の設定とも相まって琉球経済の発展も期待されている」とし、県民の期待が高かったことが伺える。
1ドルの価値の高さを記憶する人は多い。古美術店「なるみ堂」を営む翁長良明さん(70)は「1ドルさえあれば7人家族で3食をまかなえたよ」と振り返る。一方で「ドルになって物価はどんどん上がった」という感触がある。
那覇市で平田漬物店を営む玉城鷹雄さん(68)も「1ドルあれば映画を見てそばを食べてもおつりが出たね」と思い出す。しかし、沖縄の企業の給料は高くはなかった。60年代、沖縄の企業で働いても月28ドルだったが、玉城さんが勤めた本土の土建業者では11万円で円安を考慮しても高い。ただし沖縄でも軍関係の仕事だと300ドルだったこともあったという。「軍の仕事だったら高かったな」。
玉城さんの言葉を裏付けるのが、当時の沖縄経済だ。ドルに切り替えた当初の米軍の思惑や県民の期待は外れた。外資系企業の誘致は促進されず、これまでの輸入型経済を助長し、沖縄の産業育成はさらに遠のいた。追い打ちを掛けたのが、県内の通貨流通量のコントロールだ。
ドルは米国で発行されているため、沖縄で通貨の流通量の調整ができない。貿易収支で黒字になった時のみ、沖縄でドルが増える仕組みだが、そもそも沖縄では産業が育っていないために輸出する物がなく、貿易収支は赤字。資金不足で企業を興すことができず、負のスパイラルに陥った。
逼迫した沖縄経済を補てんしたのが米軍基地からの収入と日米の財政援助だ。それが基地依存経済を招いた。一方、60年代の日本本土は高度経済成長時代。所得倍増計画が打ち出され、本土と沖縄の経済格差はさらに開いた。
◆日本復帰で円へ(第5次法定通貨の変更 1972年~)
72年5月15日の日本復帰に伴い、通貨はドルから円へと切り替わった。これが第5次法定通貨の変更になる。
ドルから円へと切り替わる前年、住民生活に大きな影響を与えたのが、71年のニクソン・ショックに端を発した円の変動相場制への移行だ。
1ドル=360円が担保されていた固定相場が変動することでドルの切り下げにつながり、ドルを通貨としていた県民の実質収入が減少した。
変動相場制で物価が高騰し、県民生活を直撃した。県労働組合協議会婦人部が実施した県内物価調査によると、那覇地区税関で煎茶は71年8月から72年1月で1・7倍に値上がり、豚肉は1・3倍に高騰。輸入品の「ハーシーズチョコレート」が名護で2倍、宮古で4倍に上がった。
円への通貨交換にも影響を与えた。琉球政府は日本政府に対し、復帰前に前倒しして1ドル=360円で円に切り替えるよう求めた。日本政府は復帰前の切り替えこそ応じなかったが、ドル安円高で目減りした県民の資産を補てんするための「通貨確認緊急措置」をとると決定。
当時の交換レートは1ドル=305円だったが事前に確認された通貨は1ドル=360円の差額補償があった。通貨確認は71年10月9日に全県一斉に行われた。金融機関や公民館など県内357カ所で長蛇の列ができた。
復帰後も値上げの余波があった。沖縄婦人団体連絡協議会は復帰から2日後の17日に三越前に集まり「値上がりにストップをかけよう」と呼び掛けた。訴えを聞いていた住民は当時の本紙の取材に「生活必需品は共同購入して、便乗値上げをしている小売店のボイコットと生活協同組合の設立しかない」と話している。
◆復帰後は「格差是正」から「フロントランナー」へ
日本との格差を縮めるため、インフラの整備や産業振興を目的とした中長期的な計画「沖縄振興開発計画」が始まった。高い補助率を適用したインフラ整備に伴う公共事業や、これまでの基地収入のほか、徐々に観光業も伸び、県民の暮らしは復帰前と比べて豊かになった。
牧野さんによると、復帰に伴い本土への人口流出が想定されていたが、逆に沖縄の人口は復帰当時から約50万人増。基地依存度もピークだった57年の44%から13年度は5%と激減。今年2月の完全失業率(原数値)は2・1%で最低値を更新するなど改善し、観光客は18年度で999万人にも上り1千万人を目前にした。常に本土との格差是正が課題だった沖縄が「日本経済のフロントランナー」と呼ばれるまでに成長した。
副知事時代、2002年の沖縄振興計画を担当した牧野さん。これまで本土との格差是正が中心だった同計画を「優位性の発揮」と発想を大きく転換した。その考え方は今の県計画にも通じている。牧野さんは「中央との違いが強みになると考えると、沖縄はこれまでの47分の1から1対46になる。本土のどこの地域とも異なる歴史や文化、風土、特殊性こそがこれから県経済の強みとなる」。期待を込めてこれからの沖縄を見つめている。