画像を見る

1964年(昭和39年)秋、日本が戦後からの復興を遂げ、世界と肩を並べた証しとして実現させた東京五輪。当時、飛板飛込みの日本選手権を連覇中で、入賞はもちろんメダル第1号の筆頭に挙げられていたのが馬淵(旧姓・津谷)かの子さん(81)だった。

 

「東京五輪では、『メダリストになろう』、つまり3位までに入ろうと。下馬評でも『3位は間違いない』と言われていました。“前飛び”という目をつぶっていても飛べるような技でしたが、観客の大歓声に気おされ、足がガクガクに固まってしまって……」

 

それまで’56年メルボルン、’60年ローマと2度の五輪を経験していたはずが、予想をはるかに超えた自国開催のプレッシャーに押しつぶされてしまったのだと、無念をにじませながらふり返る。

 

「不運だったのは、女子飛板飛込み3mが、大会の飛込みトップ種目だったこと。日本代表の女子選手は2人でしたが、私が日本人の最初の競技者。つまり、五輪を初めて見る日本のお客さんで、初めて応援する日本人選手が私やったという人が多かったんです」

 

会場は盛り上がったが、結果はまさかの7位。まさしく、五輪にすむという魔物につかまった瞬間だった。

 

馬淵さんの五輪初出場から63年。今年4月26日、東京・辰巳国際水泳場で行われた飛込みの全日本選手権で、大会史上最年少の12歳で初優勝を飾ったのが玉井陸斗選手。

 

来年に迫った「2020東京オリンピック・パラリンピック」の金メダル候補の1人として彗星のごとく登場した、この天才少年を見いだしたのが、馬淵さんだ。

 

「陸斗君が初めて飛込みの体験教室に参加したのが、小1。8人おるなかで抜群でした。体のラインがいいんです。体幹もしっかりしていて、シュッとしている。手が長いなど天性のものがないと、点も出ない。精神的にも、あの年齢で完璧さを求めている。あの子の可能性は無限大です。10m飛ぶなんて、みんな今腰抜けとる(笑)。でも、てんぐにならんよう、ときどき鼻を折ってやらなあかん」

 

馬淵さんは’64年の東京五輪前に結婚。東京五輪後の’66年に長女を出産して母親となったあとも、メダルへの執念で現役生活にこだわり、やがてJSS宝塚のコーチとなって、80代となった今もプールサイドに立ち続けている。

 

「みんな、私の弟子です」

 

5月初旬のJSS宝塚のプールサイド。ジュニア選手たちがウオーミングアップする場に、黄色いメガホンを手にしたショートパンツ姿の馬淵さんが現れると、小学生たちの表情がキッと引き締まる。

 

「みんな、取材の方に『こんにちは!』って言うた?」

 

スッと伸びた背筋、整った目鼻立ち。宝塚という場所柄、歌劇団の関係者ではないかと見まがうほど。しかし、練習が始まるや、瞬時にコーチの顔に。

 

実は飛込み競技では、日本勢は五輪でいまだメダルを獲得したことがない。さらに、もし来年13歳で五輪を迎える玉井選手が、金メダルを獲得したら、14歳で優勝した岩崎恭子選手の日本人金メダリストの最年少記録を更新することになる。

 

馬淵さんは言う。

 

「10代の選手たちには、『来年のオリンピックは大変なことになるよ』『コーチは55年前の東京でこんな目に遭ったんだよ』と、自分の体験を伝えます。陸斗君には『“もっと来い”くらいの覚悟でいないとね』との心構えも。でも、陸斗は大丈夫やと思います」

 

大きなプレッシャーを体験した自分だから、そのはねのけ方も教えることができる。そんな役目も背負い、今も週5日で練習を指導し続ける。

 

玉井選手が恩師である馬淵さんについて語る。

 

「かの子先生はやさしい方で、よく『痛いところはないの?』と声をかけてくれます。僕の祖母より年上ですが、先生は若いです! 『東京オリンピックでは、頑張って、上位に入ろうね』と言われています。けど僕は、先生が果たせなかったメダル獲得を実現したいです。まだ、かの子先生ご本人には言っていませんが」

 

来年夏、再び世界の視線が集まる東京五輪で、馬淵さんは、自らコーチとして育成した玉井選手とともに頂点へ挑む。

【関連画像】

関連カテゴリー: