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「日本とベナンのハーフでずっとやってきて、日本でずっと育ってきた。お父さんもお母さんも家族みんながすごくサポートしてくれていた。感謝の気持ちを伝えたい」

 

米プロバスケットボールNBAで、日本人初のドラフト1巡目指名で「ワシントン・ウィザーズ」に入団が決まった八村塁選手(21)は、記者会見でこう語った。

 

推定年俸4億円超えという破格の契約を獲得した八村選手。快挙を成し遂げた彼のスタート地点は、富山県だった。

 

「塁くんが小学生のときから住んでいたのは、3LDKの県営住宅。塁くんの下には、弟1人と、妹が2人。幼いころ、お米や野菜などを一生懸命抱え、お母さんと買い物から帰ってくる塁くんの姿をよく覚えています」(同県営住宅の住民)

 

八村選手は、西アフリカのベナン出身である父のザカリ・ジャビルさんと日本人の母・麻紀子さんのもと富山市で生まれた。両親をよく知る隣人が話す。

 

「麻紀子さんは語学が堪能で、英語とフランス語の教室を開いていました。お父さんは、奨学金でカイロ大学に留学するほどのエリート。フランス語、日本語など7カ国語が話せるようです」

 

八村選手がバスケットボールと出合ったのは、富山市立奥田中学校に入学してから。小6ですでに身長170センチだった彼は、同級生にしつこく勧誘され、根負けする形でバスケ部に入部した。

 

富山市ではハーフは少なく、どうしても目立つ。中学入学当初、そのことでいじめにあっていたという。奥田中バスケ部の当時の同級生が話す。

 

「中1のころ、塁が3年生の数人に取り囲まれてからかわれていたことがあります。塁はすごく嫌そうな顔をしていました。それからは、その先輩たちが塁に近づきそうになったら、僕らバスケ部のメンバーが塁を囲んで、“盾”になっていましたね」

 

母・麻紀子さんは、近隣の住民に溶け込むことで、八村選手を守っていた。

 

「よその子にからかわれることは塁くんにもあったでしょう。お母さんもそのことを気にかけていたのか、仕事で忙しいはずなのに、県営住宅の草むしりや清掃などの共同作業には必ず参加していました。彼女が近所づきあいもしっかりとこなしていましたから、この住宅で八村家のことを悪く言う人はひとりもいませんでしたよ」(前出・県営住宅の住人)

 

家族、そして仲間たちに守られながら、3年生のときには全国大会で「ベスト5」メンバーに選抜されるほど、実力を伸ばした八村選手。親元を離れて宮城県の強豪、私立明成高校に進学した。

 

高校時代のチームメイトだった三上侑希さん(中央大学バスケ部)はこう語る。

 

「弟の阿蓮(現・東海大バスケ部)が僕らのバスケ部に入ったとき、塁は3年生。練習中、塁は阿蓮に対して、かなり厳しく指導していました。いま思えば、それは弟を人一倍気にかけていたからだったのかもしれません」

 

もうひとりの高校同級生の足立翔さん(中央大学バスケ部)はこんな話を明かしてくれた。

 

「うちのバスケ部の監督が、『おまえはハーフの大将になれ』と指導していました。たしかに運動能力は父親から譲り受けたものかもしれません。でも塁には、努力を続けられる“勤勉さ”もある。アメリカの大学に行くことを目標にしてからは、とにかく英語漬け。朝7時30分から学校で勉強して、昼休みも外国人の教師に英会話を教わっていました」

 

高校最後の大会で優勝した記念撮影では、いちばん下の妹を抱っこして写真に納まっていた八村選手。“弟よ、妹よ、ハーフであることを誇りに思え!”、優勝した姿を見せて、そう語りかけたかったのかもしれない。

 

かつて、いじめをともに乗り越えてくれた家族のために、仲間たちのために――。

 

自らの名字からとった背番号「8」のユニフォームを着て、全米の舞台で羽ばたく姿がもうすぐ見られる!

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