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’09年の無期限活動休止から10年。ASKA(61)は「チャゲアス」の解散を要求し続けているという。しかしチャゲ(61)には二人でステージに立たなければならない理由があった。ASKAの薬物使用で中止になった活動再開と、チャゲアスの“聖地”と呼ばれた代々木体育館でのライブを実現したい。もう一度原点に返ってやり直せれば――。

 

「自分のなかで解散は考えたことはありません。CHAGE and ASKAは俺の人生、そのものだから」

 

チャゲこと、柴田秀之が生まれたのは、北九州市小倉。’58年1月6日のことだった。小6で博多に転居すると、近所に住む叔父の部屋に通ってはビートルズを聴き、洋楽に親しんだ。

 

中学生のころ、音楽界は、フォークソングブームのまっただなか。地元出身の井上陽水やチューリップが東京で成功し、盛り上がる博多の街の空気に引っ張られるように、チャゲは音楽に傾倒していった。

 

高校生になり、バイト代で、自分のギターを購入すると、オリジナル曲を作り始める。チャゲを名乗りだしたのもこのころだ。

 

「ヤンチャだったんで、不祥事を起こしまして(苦笑)。丸刈りにさせられたんです」

 

周囲から「ハゲ」という声が飛んでくる。そのとき、後輩の女のコが思いついた。

 

「頭に“C”をつければ?」

 

「“HAGE”じゃなく“CHAGE”が。カッコいいばい」

 

そして、運命の出会いがやってくる。高校3年のときだった。学園祭に向けてバンドを組んだチャゲらは、放課後の教室にアンプを持ち込み、エレキやベースをガンガン鳴らした。その大音量にも負けないドデカイ歌声が、隣の教室から響いてくる。

 

「そこにいたのが、宮崎重明(ASKAの本名)。お父さんが自衛官で、北海道の千歳から隣のクラスに転校してきた。剣道をやっていて、千歳では屈指の実力。転校してきたときは『剣士が来た!』と、噂になったんですよ。だから、存在は知っていたけど、しゃべったことはなくて。歌っている姿を見て『おまえ、剣道やなかったのか?』と、思わず聞いてしまいました」

 

地元の大学に入るとチャゲは音楽部に入部。同じ大学に進学したASKAは、音楽武者修行を始めた。

 

「ASKAは剣士なだけあって、道場破りのようにギター1本持って、いろんなところに演奏に行っていたんです。人なつこくて、大人の懐ろに飛び込むのもうまく、どんどん世界を広げていました」

 

そんな二人が急接近したのが、大学2年のときだ。部費を使い込んだ3~4年生が一斉に引退し、急きょ、部長に推されたチャゲ。そのとき、「手伝っちゃる」と、週1回の音楽部のライブに出演してくれたのがASKAだった。

 

ヤマハのポプコン(ポピュラーソングコンテスト)に誘ってくれたのもASKAだ。ポプコンといえば、中島みゆきや世良公則&ツイストなどを排出した名門のアマチュアコンテスト。

 

「チャゲ、出てみないか? つま恋の本選でグランプリ取ったら、下手したら武道館だぞ」

 

武道館といえばビートルズだ。

 

「それはよかね!」

 

すぐに、その気になった。とはいえ、デュオを組んだわけではなく2人は別々にエントリー。地区大会でASKAは最優秀歌唱賞、チャゲはグランプリを獲得する。つま恋本選に向け、ヤマハのスタッフがアドバイスしてきた。

 

「パワーアップしろ。チャゲとASKA二人で歌うんよ。組むなら、スタジオ、タダで貸しちゃるけん」

 

手始めに、チャゲの受賞曲『夏は過ぎて』を二人で歌ってみた。一緒に歌うのはそれが初めてだ。ツインボーカルがユニゾンで響き合う。2つの声が重なったとき、思わずお互い、顔を見つめ合っていた。スタジオのスタッフたちも、声が出ない。

 

「これは、いい!」

 

CHAGE and ASKAの誕生だった――。

 

それから1カ月。スタジオにこもりきりで練習し、つま恋に臨んだ。しかし、本選のレベルは高く、グランプリを逃してしまう。

 

「人生でいちばん練習した時期です。いまでも練習するけど、二人とも19~20歳だったから、やればやった分だけうまくなる。面白くってしょうがなかった」

 

翌年の第17回ポプコンには大きな自信を持って臨んだ。ASKAが作った『ひとり咲き』の完成度は高く、周囲からもグランプリ候補と目されていたが、本番で進行を間違え、結果は入賞。

 

しかし、落ち込んでいるヒマはなかった。グランプリ受賞者が契約するのとは別のレコード会社が、手を挙げてくれたのだ。

 

「『すごくいいよ、キミたち』と。大きな流れに乗せられて、あれよあれよという間にデビューです」

 

’79年8月25日、つま恋で歌った『ひとり咲き』をリリース。

 

「デビューが決まってからは、敷かれたレールの上を走る暴走列車に乗り込んだようなものでした」

 

二人で上京し、渋谷区の同じマンションに住んだ。レコード会社は破格のプロモーションをかけてくれた。運も味方した。

 

大物歌手の出演キャンセルの穴埋めに、急きょ『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)に出演し、『ひとり咲き』を歌うと、翌日からレコード売り上げが跳ね上がった。

 

デビュー直後から、力を入れていたライブツアーも、大会場では空席ばかりが目立ったが、『夜ヒット』以降、その空席がみるみる埋まるようになっていった。

 

デビューは順調だったが、3枚目のシングル『万里の河』のあとは、ライブ動員は多いのに、レコード売り上げが伸びなかった。

 

「音楽業界の七不思議のように言われていました」

 

デビュー10周年の’89年、CHAGE and ASKAは活動休止を発表。ASKAはロンドンで本腰を入れて音楽を勉強したいと言いだした。

 

「ASKAは当時、光GENJIなどに音楽提供もしていましたが『ヒットメーカーという肩書に甘えちゃダメだ』と言ってね。すごいもんですよ。当時は英語も満足にできなかったのに。俺は俺で、バンド活動をしたかった。憧れていたのはビートルズですから」

 

1年後、ロンドンのASKAから連絡が入った。

 

「ロンドンでレコーディングせんか?」

 

このときレコーディングしたのが月9ドラマ『101回目のプロポーズ』(’91年・フジテレビ系)の主題歌『SAY YES』だ。

 

「ブランクがあっても、お互い歌い始めれば、息は合います。ASKAの肩の動きや息づかいを見れば、ピタッと歌を合わせられる。ASKAも俺に合わせてくる」

 

そこには二人にしかわからない音楽世界が確固としてあった。『SAY YES』『YAH YAH YAH』のダブルミリオン。CHAGE and ASKAは頂点に立った。1万人クラスのライブが次々に決まり、怒濤の日々が始まった。

 

「忙しかったけれど、とにかく、ライブが楽しかったんですよ」

 

’07年のライブツアーは、生涯忘れられない完成度だった。

 

「俺のなかでは、ベストライブ。すべてを出し切ったし、有無を言わせないパフォーマンスで、お客さんを圧倒し切れた。やり切った感があったんです」

 

デビュー30年になろうとしていた。

 

「どちらからともなく、ここらへんで、活動休止してもいいかもという雰囲気が出てきましたね」

 

ASKAとなら、いつでも元に戻れる。チャゲはそう信じていた。

 

’09年、無期限の活動休止を発表し、チャゲはソロ活動に専念。最小限の編成で、全国を回った。とはいえ、音楽業界がチャゲアスを放っておくわけがない。’11年には水面下で、活動再開の計画が動きだしていた。再開ライブの会場は、代々木体育館だ。

 

「代々木体育館で初めてライブをしたのは俺たちです。’83年でした」

 

その後も代々木でライブを重ね、ファンの間でも、代々木はCHAGE and ASKAの聖地となっている。

 

’13年1月、活動再開が告知され、新譜も発表しようと、お互い2曲ずつ、用意することになっていた。その矢先、ASKAの覚せい剤使用疑惑が『週刊文春』などで報じられた。’13年6月、ASKAは体調不良を訴え、活動を自粛。チャゲアス活動再開も白紙に戻った。

 

「一連の報道が出たときは、なんだこれ。フザけんなよ! って」

 

当時を振り返るチャゲの表情に、悔しさと情けなさがにじんだ。’14年5月17日朝、事務所の社長から突然、電話があった。

 

「ASKAが逮捕されたよ」

 

逮捕のニュース速報が流れる数時間前だった。

 

「怒りとか、そういうもんじゃない。『馬鹿野郎!』を通り越して、もう頭が真っ白ですよ」

 

それから5年の時が流れた。年に1度、ASKAと顔を合わせる機会はある。しかし、活動再開への道筋はいまだ見えていない。ソロで音楽活動を再開したASKAのことを見続けてきたチャゲは、今、きっぱりこう語る。

 

「俺は彼をよく知っている。俺よりまじめで音楽に純粋な男です。俺はASKAがいなくては、いま、こうして音楽をやれていない。きっとASKAも、俺がいたから、ここまできた。二人だったからこそ、たどり着けた。そう思っています。解散は、俺のなかにはまったくない。’13年にやるはずだったチャゲアスの聖地・代々木で、いつかはやる。ファンとの約束は守る。そこはブレずに、いまも思い続けています」

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