終戦翌年の1946年夏、疎開先の宮崎県から引き揚げると、那覇市内の民家を訪ねた。一緒に対馬丸に乗った同級生の死を伝えるためだった。出迎えた母親はにらみつけてこう言った。「お前だけ生きて、うちの子は死んだというのか」。玄関先の石を何度も何度も投げつけられた。
大嶺正次郎さん(88)=那覇市=は当時のことを鮮明に覚えている。同級生の母親からは乗船前に「兄弟のようにしてくれ。万一のときは助け合って」と念を押されていた。この一件以来、対馬丸との関わりはほとんど避けてきた。
那覇国民学校高等科2年生だった13歳のとき、対馬丸に乗船した。当時、既に沖縄近海の制海権は米軍が握っているとのうわさは市民にも伝わっていた。ただ「長めの遠足。1カ月くらいで帰れるだろうと思っていた」。家族の反対を押し切って疎開を決めた。
自分は強運だと思う。被弾した船倉内では、乗船者が逃げ惑う中で、偶然見つけたはしごを使って難なく甲板に出られた。海に飛び込むと手の届くところに救命ボートが浮かび上がった。漂流して数日、偵察機に発見され、知らせを受けた漁船に救助された。
かん口令が敷かれ、憲兵や警察に監視される中、故郷の母と祖母には「カネヲクレ」と電報を打ち「無事」を伝えた。疎開先で国民学校を卒業すると朝鮮鉄道で働いた。終戦後、朝鮮から引き揚げてくる時も海難事故に遭ったが、乗船者の中で唯一助かった。再び疎開先の宮崎に戻り、住み込みで働いた。家の主人はかつて沖縄に住んでいたことがあり、かわいがってくれた。母と祖母は沖縄戦を生き延びた。
戦後は給料の良い仕事にありつき家も建てられた。結婚し子宝にも恵まれ、子は3人、孫6人、ひ孫も4人いる。対馬丸には疎開者1661人と船員ら127人の計1788人が乗ったとされ、名前が判明している犠牲者は1484人。「私は助かった約300人の一人。運以外の何物でもない」
ただ、対馬丸から生還したことが、良いことだとは決して思えなかった。石を投げつけた同級生の母親だけでなく、生存者であることを知る対馬丸の遺族からは「あなたは結婚して子どもをつくったけど、うちの子は…」と何度も言われた。「遺族の顔を見ると心が苦しい。本当に苦しかった」。毎年8月22日の慰霊祭には参加してこなかった。
4、5年前、病気で入院していた対馬丸生存者の同級生を見舞いに行った。生き残り同士、つらい経験をしてきたこと。その一方で、夢をかなえられずに犠牲になった学童たちのこと…。「今の子どもには同じ経験をさせたくない」と、対馬丸記念館の活動に参加するようになった。
自宅玄関の壁には、大きく引き伸ばした対馬丸の写真を額に入れて飾っている。「私の人生の原点ですから。残り短い命だけど、生きているうちに、できるだけ対馬丸の悲劇と教訓を世の中に残していきたい」
(高田佳典)
学童や一般の疎開者を乗せた対馬丸が米軍の潜水艦に撃沈されて22日で75年を迎える。生存者や遺族ら対馬丸をめぐる人々は何を思い、何を背負って生きたのか。それぞれの“航跡”をたどった。