大学生のころ。手足には痛々しいテーピングが。 画像を見る

大相撲春場所の千秋楽で貴景勝(23)を撃破し、大関昇進を決めた朝乃山(26)。3日後の3月25日に行われた伝達式で、彼は《大関の名に恥じぬよう、相撲を愛し、力士として正義を全うし、一生懸命努力します》と宣言。新大関にふさわしい、堂々とした口上だった。

 

だが記者が「相撲を始めたころから朝乃山関は強かったのでしょうか?」と問うと、母・佳美さん(57)は意外にも「弱かったよね?」と靖さんを見た。そして父・石橋靖さん(62)んも「市や県の大会になると、すぐ負けていました」とうなずいた。

 

なぜ“弱かった”少年が大関にまで上り詰めたのか。その才能開花の陰には、実に4度もの挫折があった――。

 

’94年3月1日、3人兄弟の次男に生まれた朝乃山。初めて相撲に触れたのは、小学4年生のとき。だが中学校ではハンドボール部に入部したという。ここで最初の挫折を味わった。

 

「中学校に入った途端、息子は変わりました。帰ってきたときの表情が今までと違って……。口では言わないものの、いつもつらそうにしていました」

 

そう振り返る佳美さん。原因はハンドボール部の練習だった。

 

「足が遅くてランニングについていけなかったんです」(靖さん)

 

入学早々、ハンドボール部を退部。中学校生活の出ばなをくじかれた朝乃山。そんななか、声をかけたのが相撲部だったという。

 

決して手を抜かず、監督から言われた課題に取り組み続けた朝乃山。結果、中学3年生のときにはキャプテンにも選ばれた。ここで2つ目の挫折が。全国都道府県中学生相撲選手権大会で、対戦中に左腕を骨折したのだ。

 

「一瞬、何が起こったのかと思いました。取組が終わったのに、立ったまま腕を押さえて動かないんです」(靖さん)

 

実は、中学で相撲をやめることも考えていたという朝乃山。しかし骨折した朝乃山は土俵に上がれず、応援席でエールを送ることに。最後の試合は、不完全燃焼なままで終わった。そんなとき、声をかけた人がいた。富山商業高校相撲部の監督・浦山英樹さんだ。「俺が強くしてやる」という言葉に、朝乃山は高校相撲でのリベンジを誓った。

 

よい指導者に恵まれ、練習に明け暮れた朝乃山。しかし、高校時代の最高成績は全国2位。またも優勝には届かなかった。そんな3度目の挫折を経験した朝乃山は、近畿大学へ進学。だが大学最後の全日本相撲選手権大会でもやはり、結果は3位。4度目の挫折だった――。

 

相撲を始めてから大学卒業までの12年間。いつも大事なところで負け続け、頂には一歩届かなかった。それでも朝乃山は土にまみれながら、指導者の教えを実直に守り続けた。靖さんはこう語る。

 

「人生の岐路には、悩むこともあったでしょう。でも自分が決めたことなら、何があっても納得して次に進んでいけるはず。だから私は息子を信じ、自主性を尊重してきました。息子は今でこそ体も大きくなりましたが、同年代の男の子たちと変わらない普通の子。特別なことは何もありませんでした。ただ、素直。それだけは生まれたときから一貫していました。ケガをしても練習を休まず、先生から教えられたことを黙々と繰り返してきたんです。それが、今の強さにつながっているのだと思います」

 

「女性自身」2020年4月21日号 掲載

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