「いま、マスク作りに凝っているんですよ」 そう言いながら、器用に生地を裁断し、ミシンをかける。瞬く間にフェルトのマスクが完成だ。 「4段のひだ付きで、鼻の部分の癖付けには、植木用のビニールタイを使っています。ファンデーションがついても目立たないように、色はベージュ。10種類くらいできています。次は唇の形を書いて、穴を開け、ストローを入れられるようにしようかな」
より便利な“手作りマスク”のアイデアが次々と湧いてくる。話しながら、元宝塚歌劇団雪組のトップスター・たかね吹々己(ふぶき)さん(54・前名・高嶺ふぶき)は、充実した顔でほほ笑んだ。
そんな彼女は、4月12日、「劇団とっても便利」のミュージカル『美しい人』を最後に、舞台から引退。新天地は、山口県の周防大島。なんと、ホテルの女将(おかみ)さんに転身するという。
「マスクは今後も旅行者に必要ですから、この秋、開業予定のホテルのお土産物にしようかな」
転身のきっかけの一つは、がんに罹ったこと。たかねさんが、がんの告知を受けたのは3月3日のことだった。
「先生からは『細胞診の結果、甲状腺乳頭がんでした』と、明るく言われましたよ。『手術で90パーセント完治します』とも。でも、そのあとに『ただ、歌うことはできません』と……。手術をすれば、声帯をつかさどる反回神経を傷つけてしまう。初期のがんで、普通に会話する分には問題ありませんが、人に聴かせる音楽性の声を維持するのは無理だと。パフォーマーとして、それはどうかなと思ったんです」
コロナ禍で世界中が未曽有のパニックに陥るさなか、人生の一大転機に果敢に挑もうとしているたかねさん。そのバイタリティは、止まる所を知らない。
「『歌い方にもいろいろあるから』と言ってくれる人もいます。でも、やっぱりそれでは自分が許せない。この仕事って、日々精進で、ゴールはないんです。最後の日がくるまで、一歩一歩、前進したい。だから、これ以上、進めないということであれば、歌、舞台、一切やめよう。そう思いました」
たかねさんは潔い。一度、決めたらブレない人だ。そこに、ホテルの女将さんを探していると、声がかかった。がんの手術は5月27日。思いはすでに、入院・手術を飛び越えて、女将さん業へと向いている。
「生きてさえいれば、どんなところでも自分を生かす道はある。人さまのお役に立つことができるのであれば、どんな場所でも、そこがステージ。歌で進歩できなくなっても、ホテルという第二のステージで、これからは進歩ばかりじゃないですか」
そう語った、たかねさんの引退公演。ミュージカル『美しい人』は、京都府立文化芸術会館で上演された。千秋楽は4月12日。すでに東京、大阪など7府県で緊急事態宣言が発令され、定員400人の会場に、足を運ぶことができたのは120人だけだった。2席以上、空けて座る。マスク着用。歓声は自粛、拍手のみという特殊な空間だったが、黒を基調としたロングドレスを身にまとい、舞台の上にゆっくりと歩を進めるたかねさんを見つめるファンの視線は熱かった。
ラストは、宝塚時代から歌ってきた名曲『This Moment』。歌いあげるその声は重厚で伸びやかだ。
「『いま、この瞬間を生きていることを大事にしよう』という内容の歌です。コロナではなく、あったかいものを持ち帰っていただきたかった。ささくれだった空気のなかでも、光を持って帰ってほしい。光の玉を持って、人に優しくできる余裕を、伝えたかった」
歌い終えると、たかねさんはマイクをゆっくりと、ステージ中央に置いた。昭和の歌姫・山口百恵さんのラスト・ステージを思い出した人も多かったことだろう。しばらくして、マイクを拾い上げた彼女も、ちゃめっ気たっぷりにこう言った。
「知ってます? 山口百恵さん」客席は大きな笑いと拍手で包まれた。彼女が願った温かい光の玉が、そこに優しく輝いていた。
「女性自身」2020年6月2日号 掲載