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住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、あんなふうになりたい! とあこがれたアイドルの話。活躍する同世代の女性と一緒に、“’80年代”を振り返ってみましょう――。

 

「’88年、ママドルとなった聖子さんは、東京・自由が丘に『フローレス・セイコ』をオープン。パステル調のかわいらしい子ども服が大人気で、ママ友にプレゼントすることがステータスになったほど、ブランド力がありました。タレントショップが数多く乱立する中、抜群の知名度と人気で一線を画し、店には行列ができたものです。聖子さんの自己プロデュース力には、驚かされます」

 

そう話すのは、世代・トレンド評論家の牛窪恵さん(53)。

 

松田聖子は’85年1月、郷ひろみとの破局を告白する会見で「生まれ変わったら一緒になろうねと話した」という名言を残してほどなく、同年4月に映画『カリブ・愛のシンフォニー』(’85年)で共演した神田正輝との婚約を発表。

 

続く6月に結婚式を執り行い、年末から休業に入ると、翌’86年10月に長女・沙也加を出産。’87年4月にはシングル『Strawberry Time』で本格的に復帰した。

 

瞬く間に、正統派アイドルから、ママドルへと変貌を遂げたのだ。

 

「当時はまだアイドルにとって、交際相手がいることもタブー。ましてや結婚、出産でやめるのが当たり前とされた時代でした。’93年、雅子さまが外務省のキャリア官僚を辞して皇室に入られたときも、寿退社の象徴と言われました」

 

聖子がそんな常識を打ち破れたのは、結婚直後に絵本『ベビー・ディヴァインの冒険』の日本語訳を手がけたり、休業中に自叙伝を出版したりするなど、入念な準備をして、独自にママドルというポジションを開拓したことにある。

 

歌手としても『Marrakech~マラケッシュ~』『旅立ちはフリージア』(ともに’88年)と、立て続けにヒットを飛ばした。

 

「メディアで母娘の動向がたびたび報じられたことから、日本中が聖子さんのママぶりに注目し、沙也加さんの成長を親戚のような目線で見守ってきました。’11年末の『紅白歌合戦』で初めて親子共演して『上を向いて歩こう』を歌ったときは、“あの沙也加ちゃんもあんなに大きくなったんだ”と感慨深く、思わず私も涙ぐんでしまいました」

 

忘れ去られるどころか、目の離せない存在であり続けたママドル聖子。

 

「現代のユーチューバーは、自己プロデュース力がなければメジャーな存在になれないといわれています。聖子さんの歩みを分析すると、彼女は今の時代であっても、スターとして輝けるはずです」

マーケティングライター、世代・トレンド評論家

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