神田沙也加さん(享年35)がこの世を去ってからまもなく3カ月。四十九日にあたる2月4日の翌日には、沙也加さんへ追悼メッセージを寄せることのできる専用ページが開設され、絶え間なくメッセージが届いているという。
そんななか、母の松田聖子も悲しみの淵からふたたび歩き始めていた。休止していた音楽活動を再開するのだ。
「聖子さんは3月7日に、4月と5月に中止していたディナーショーの振替公演、6月から全国アリーナツアーを行うことを発表しました。先日ファンクラブ会員向けに配布した会報誌では、『悲しんでいるだけではいけない』という新たな決意が書かれていたそうです。還暦を祝う周年イベントについても計画していると聞いています」(音楽関係者)
3月10日に還暦を迎えた聖子。80年に歌手デビューを果たしてから、42年にわたって“生ける伝説”として芸能界に数々の革命を起こしてきた。
しかし、意外にも“満場一致”のデビューではなかったようだ。聖子がデビューから約10年間にわたって所属した事務所「サンミュージック」の名誉顧問である福田時雄(91)は、本誌3月22日号でこう述懐している。
「相澤秀禎社長(当時)をはじめ5人で歌を聴きました。80年には中山圭子というアイドルをデビューさせる予定でしたから、大多数の社員が反対した。ところが、音楽ディレクター(月野清人氏)だけは『いい声だから呼ぶだけ呼んでみましょう』と賛成っした。あの一言がなかったらウチに入ってないでしょうね」
そんな試練を乗り越え80年4月に「裸足の季節」でデビューすると、またたく間にスターの仲間入りを果たし、3枚目のシングル「風は秋色」(80年10月発売)から26枚目のシングル「旅立ちはフリージア」(88年9月)まで24曲連続でオリコン週間シングルチャートで第1位を獲得するという偉業も成し遂げた。
デビュー同年に入れ替わるように引退した山口百恵が大人な路線を進んだのとは対象的に、「ぶりっ子」と言われることもあるほど可愛らしさを体現した聖子。“アイドルの原点に立ち返った”とも評されることのある聖子だが、同時にアイドル界に変革を起こしてきた。
「聖子さんはデビュー前から憧れていた郷ひろみさん(66)と数年間交際しました、85年1月に突如会見で破局を発表。会見で『生まれ変わったら一緒になろうねと話し合った』と泣きながら語った聖子さんの姿は、当時、多くの人々に衝撃を与えました。
そして、破局報道の熱も冷めやらぬ同年2月に神田正輝さん(71)との交際が発覚。そのまま4月に婚約を発表し、6月に結婚式を行いました。挙式には数え切れないほどのマスコミが殺到するなど、全国民がその一挙手一投足に注目していました」(ベテラン芸能記者)
本誌も新婚旅行で訪れたハワイで、ボートの上で神田と抱擁を交わす聖子の姿を目撃している。
そして、聖子にとって無上の喜びとなったのが沙也加さんの誕生だ。神田と結婚した翌年の86年10月に沙也加さんが誕生すると、あまりの注目ぶりから病院で出産会見を開くという異例の事態に。当時は異例であったが、聖子は出産後もトップアイドルとしてヒットを飛ばし続け、「ママドル」という言葉を生むなど、日本の女性の生き方にも影響を与えた。
89年に契約満了に伴い事務所を退所すると、聖子は活動の場を海外へ移すように。同時にこの頃から楽曲のセルフ・プロデュースも手掛けはじめ、96年の作詞作曲も務めたシングル『あなたに逢いたくて〜Missing You〜』では久しぶりのオリコン週間シングルチャートで第1位を獲得し、自身で新たな代表曲を作った。
97年1月に神田と離婚し、6歳年下の歯科医師との再婚と離婚を経て、12年6月に医大の准教授と3度目の結婚をするなどプライベートでは数々の変化があった聖子。そんな聖子に大恩人との別れが。13年5月に“育ての親”であったサンミュージックの相澤秀禎さんが亡くなったのだ。
89年の退所をめぐって絶縁が報じられるも、00年代にはふたたび親交を深めるなど固い絆で結ばれた2人。それ故、5月28日に行われた相澤さんの通夜に姿を見せた聖子はかつてないほど憔悴していた。そんな、聖子を支えていたのが、愛娘・沙也加さんだった。
通夜に参列した沙也加さんは、聖子の手を繋いで隣に寄り添うなど、悲しみにくれる母を終始、気遣っている様子。相澤さんと対面し、涙を流す聖子の背中に沙也加さんがそっと手をそえる一幕もあった。
恩人との別れを乗り越え、その後は新機軸となる全編ジャズで構成されたアルバムを発表するなど、精力的な活動を続け、20年にはついにデビュー40周年を迎えた。
歩き始めた“最強アイドル”聖子の歌声は、待ち望んでいた人の心を明るく照らすことだろうーー。