11月某日 北イタリア・パドヴァ
私の暮らしている北イタリアの古都パドヴァには、とある一匹のパンダが生息しています。ひしゃげた三角形のおにぎりのような顔型をした、決して可愛いとは言い難いそのパンダは、いつも全身から寂しさを放出させながら、街のメインストリートにある『ZARA』のこじゃれたウィンドウの縁にじっと座って、真正面に置いた紙コップに誰かが小銭を投げ入れてくれるのを待って、日々を過ごしています。
1年前、最初にこのパンダを見かけたときは、イベントか何かに参加して疲れた着ぐるみが、ほんの一瞬そこに座って休んでいるだけだろうと思ったのですが、直後に投げ銭用の容器に視線が止まって、そこでパンダという扮装の商売をしているのだということを認識したのでした。
2度目にこのパンダを見かけたのはそれから1年後でした。外出をしても、おしゃれなメインストリートには滅多に行かない私なので、パンダがどれくらいの頻度でそこに現れているのかは見当もつきませんが、1年後のその日もパンダは、まったく同じ場所に微動だにせずじっと座って、誰かが投げ銭をしてくれるのを待っているのでした。
私は思わず数メートル離れたその位置から、パンダを撮影してツイッターに『街角の物悲しいパンダ』とコメントしてアップしたのですが、なんとそれからすぐに『私、3年前にも見かけました』というリプライがありました。そして、そこには今とまったく同じ場所でしょんぼりと座っている、そのパンダの写真が添付されていたのです。
3年前の写真に比べて、今のパンダからは若干張り感が失われ、三角形の顔も、その素材自体の重心を支えきれずに斜めに傾いています。何度か洗われた形跡のある表皮は拭い取れぬ汚れで薄灰色に染まり、やたらと目立つシワやくぼみは中身の“餡”(あん)の貧相さを伺わせます。きっとあんまり肉付きの良いとはいえない餡なのでしょう。
着ぐるみというのは、どんなに古くさくなっても中に人間が入っている限り、それなりの生命力がどこかに宿っているものだと思っていたのですが、そのパンダの醸し出している生気のない無機質感はハンパありません。辛うじて、足下に置かれた投げ銭入れから、その着ぐるみの中にはお金を必要とする生き物が入っているのだな、という微量の生命反応を察するのみです。
ちなみに私は、通りすがりにそのパンダの投げ銭入れを覗いてみましたが、一瞥した限り、容器の中には一銭も入っていませんでした。当然といえば当然です。何の芸当をするわけでもなく、この世で最も可愛らしい生き物に変身することを選んだにも関わらず、醸し出されているのは容赦のないほどの見すぼらしさと不気味さのみ。目の周りの黒い模様の中心の、小さく抜かれたどこまでも黒い穴二つがやたらと不吉な感じで、こんな怖いパンダに近寄る奇特な子供なんておそらく一人も居ないでしょう。
要するに、このパンダには、投げ銭入れに小銭を入れたくさせる要素は皆無なのです。だったら、そんな恐ろしげな着ぐるみ姿なぞやめて、中身で勝負した方がまだ商売になる可能性があるかもしれません。
しかし、何年間もまったく同じパンダ姿で、数メートルも移動せずに同じ場所に座って微動だにせず、小銭を期待して生きて行こうとしているその姿には、いさぎの良さを感じないでもありません。
パンダは、ひょっとするとその姿をそこに置き続けることで、我々の視界にその姿をさらすことで、何か深い哲学的なものを通り行く人々に示唆している可能性もあります。
着ぐるみを着ているからといって、そこにありきたりな楽しさや明るさを期待されては困る、とパンダは訴えているのかもしれません。着ぐるみを身につけることによって、生身の人間よりもさらに悲しさを身にまとってしまうことだってあり得るのだと、道化の論理を我々に示唆しているのかもしれません。
私はその“悲しいパンダ”の暗黙の訴えを、ちょっとだけ心に受け止めたような気になって、家に帰ってから、なにかパンダを目撃した人の感慨深いコメントはないものかと検索をしてみることにしました。