「翔子がダウン症であると告げられたときは、まるで終身刑の宣告を受けたような衝撃がありました」
大田区久が原で書道教室を切り盛りする多忙な日々の中、泰子さんは自宅兼教室に招いてくれた。
この日は個展開催中なので翔子さんは留守。
「こんなにたくさんの人が私の作品を見に来てくれるなんて、嬉しい」といい、毎朝早起きをして、自転車を漕いで会場へ駆けつけ閉館まで来訪者の対応に当たっているという。
記者が、その個展会場で出会った、2歳半になるダウン症の男の子を連れていた母親はこう話す。
「翔子さんはふわっとした方で本当に天使みたいですね。『般若心経』はものすごく正確な文字で書かれていて、ここまで書けるのかと思い、ダウン症だからといって希望がないわけではないと心強く思います。
私も、子供がダウン症とわかったときは本当にショックで、まだ親しい友人にも話せずにいます。いまは翔子さんのお母さんのように、自分も、息子になにか一つの才能を見つけてあげたられたら、という思いです」
翔子さんの存在がクローズアップされるにつれ、泰子さんのもとには、いま全国から感動、励まし、そして感謝の便りが数百通も届いている。
翔子さんの存在そのものに、希望を見出した、同じダウン症の子供を持つ母親からのものが多いのだという。
「こんな日が来るなんて思ってもみなかったんですよ」
という泰子さんは、翔子さん誕生当時の苦悩を、懐かしむように語りはじめた。
「『知能がまったくありません』『一生寝たきりです』と診断され、もうなんの希望ももてなかったのです。なぜ自分の子供が、という混乱とこれからまったく知能のない子どもを育てなくてはならない恐怖で、翔子を抱きながら、『周りに迷惑をかけたくない』『2人で死ななければ』と、ただただ泣いていました。もう、未来にはどんな希望もないという思いで、希望がなくてどうして育てられるのかと、奈落の底にいたのです」
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