嘉田由紀子 新党結成の陰に「時代に泣いた13人家族の母」
「妹は人あたりはソフトですが、非常に芯は強い。気が強くて、決めるとテコでも動かないところがあります」
そう苦笑いするのは、嘉田由紀子滋賀県知事(62)の実姉・明堂純子さん(66)。総選挙直前に「卒原発」を掲げて結党した『日本未来の党』の代表でもある彼女の実家は埼玉県本庄市。養蚕農家の二女だった。2年前に亡くなった実父は本庄市の市議を3期務め、実姉・純子さんも現在、同市の市議を務めている。
「父は8人きょうだいの長男でしたから、実家は祖父と祖母、叔父や叔母もいっぱいいる大家族。多いときは13人で暮らしたこともありました。母は大家族の長男の嫁に来て、体力的にも精神的にも苦労しました。養蚕農家って過酷なんですよ。朝早くに起きて、まずお蚕にご飯をあげてから自分たちが食べて……。父は仕事柄、家を空けがちだったので、母は一緒に働く姑にも夜遅くまでこき使われて大変だったと思います。苦労している母を助けたいと、私も妹も学校から帰ると蚕の世話をしたりしました」(純子さん)
嘉田知事はこうした封建的な家庭環境から飛び出すように、高校卒業後は京都大学農学部に進学。サバンナに憧れ探検部に入部し、アフリカのタンザニアに単身、住みこんだ。そして、在学中に知り合った良平さん(64)と22歳で結婚。2児に恵まれるも、研究者として共働きの道を選んだ。
そんな“研究畑一筋”の彼女に一大転機が訪れたのが06年。滋賀県知事選への出馬だった。夫をはじめ、家族のほとんどが反対したという。しかし、それらの反対を押し切ってまで、彼女は政治の世界に飛び込んだ。そこには、“母の死”も大きく影響しているようだ。
「母は96年に亡くなりました。妹は本当にショックを受けていました。妹は幼いころから母の苦労を見て『どうして女性がこういう辛い目にあうんだろう』という思いが強かったようです。女性にとって大変な時代でした。母は学校の先生をしていて、基本的な能力は非常に高い人でした。料理も縫い物も上手ですし、何でもできた。だけど、その母の才能を生かせない時代でしたよね……。だからこそ今、妹は女性の力を社会で発揮できる世の中にしたいと思っているのでしょう」(純子さん)
“鉄の信念”を貫き「女性が幸せになれる国へ」と突き進む彼女の胸底には、最愛の母への誓いがあった――。