嘉田由紀子 育児ノイローゼに胃がん摘出…次男語る激動半生

「もともと学者志望だった母は博士号を取る前に子供ができたので、子育てと研究の両立にすごく苦労したと、何度も母自身から聞いています。母が26歳のとき兄が生まれ、当時両親は夫婦揃ってアメリカの大学に留学中でした。父は以前と変わらず大学に通えたのに、母は勉強したいのに家で子育てしなければいけない。それで『育児ノイローゼになりかけた』と言っていました」

そう語るのは、嘉田由紀子滋賀県知事(62)の二男で京大研修員の修平さん(33)。総選挙直前に「卒原発」を掲げて結党した『日本未来の党』の代表でもある嘉田知事。在学中に知り合った良平さん(64)と22歳で結婚し2児に恵まれた彼女だが、知られざる激動の半生があったという。修平さんがこう続ける。

「米国から帰国後、母は京大の研究室に戻ってきたんですが、なかなか子どもを保育園に預けることができずに苦労したそうです。当時、学生の身分だと、子どもを受け入れる保育園が京都にはなかったようです。滋賀に転居したのは琵琶湖の研究もありましたが、学生でも県内の保育園で子どもを預かってもらえたのが、いちばんの理由だったそうです」

81年に琵琶湖研究所の主任研究員となった嘉田知事。修平さんが小学生になると研究に没頭し、帰りが遅くなる日も増えたという。修平さんが中学に進学した92年、嘉田知事は琵琶湖博物館の開設準備室員となる。それと前後するように体調に異変が起こった。胃がんだった。

「手術で胃の約3分の2を摘出しています。確かにそのときは大変でした。博物館の開館準備で毎日、朝早くから深夜まで働きづめでしたから……」(修平さん)

子育てに加え、博物館の準備に奮闘する余り、体に負担がかかってしまったようだ。しかし、退院後も研究への情熱は冷めることがなかった。そんな“研究畑一筋”の彼女に一大転機が訪れたのが、06年の滋賀県知事選だった。夫をはじめとして家族のほとんどが反対するなか出馬し当選。離婚は2年後、修平さんが結婚式を終えた数日後だった。

「私の結婚で息子2人が一本立ちし、親としての役割を終えたタイミングでの離婚となりました。父の単身赴任も4~5年続いていましたし、父は“政治に足を踏み入れるべきではない”という意識が強かった。逆に母は使命感を持つなら政治に足を踏み入れるしかないと思っていたんです」

 

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