9月20日、社会党元党首の井たか子さん(享年85)が肺炎で死去した。土井さんといえば「山が動いた」など数々の名言を思い出す人も多いだろう。力強くわかりやすくて、ごく普通の有権者にもすぐに理解できる言い方。“意味不明瞭”な、従来の男性政治家からは聞けなかった、本音で語る「女性の言葉」が、あの熱狂的な土井ブームを生んだ。土井さんは日本の政治に「女性の言葉」を持ち込んだ先駆者だった。

 

「それが土井自身の意志でしたが、本当にみなさんに会わせないでよかったのか、最後にあんな少人数でお別れをしてしまってよかったのか、正直、いまも悩みます。私が耳にした彼女らしいなと思った最後の言葉は、病室で聞いた『また歌いたいなぁ』でした。歌は政治家生活の息抜きで大好きでした」

 

そう語るのは五島昌子さん(76)。土井さんの初当選以来36年間の議員生活を常に支え、分身とまでいわれた名物秘書だ。最晩年の数年間、五島さんは土井さんの「盾」となり、知人や関係者からの連絡をさえぎっていた。土井さんの晩年とは一体どんなものだったのか。五島さんが初めて明かしてくれた。

 

「’10年4月に事務所を閉めた後、入院したと聞き驚きました。(引退してから3年後の’09年、土井さんは神戸の実家に戻り姉との生活を始める)隣に住む弟のお嫁さんとコーヒーを飲むのに、わずか3分の距離を歩いていて転んだと。さらに退院直前、ベッドから落ちて大腿骨骨折で大手術。車いす生活になりました」

 

このとき一部のマスコミで、『認知症で車いす生活』などという憶測も出たが、まったくのデタラメだった。

 

「相変わらず、何事も全力投球。リハビリがあんまり苦しそうだから、もう部屋に戻りましょうと私が言うと、時計をキッと見上げて、『まだ15分あるじゃない』って」

 

神戸の裕福な開業医の家に生まれた土井さんは、終戦時には16歳で、学徒動員、弟妹を連れて爆撃機から逃げるという体験もした。リアルに戦争を知る世代だ。終戦後、同志社大学で憲法学者の道を歩み始め、その後も一貫して護憲の立場を取り続けた背景には、この強烈な戦争体験がある。

 

土井さんは、’69年の衆院選初出馬・初当選したときから、威風堂々の立ち居振る舞いと、「憲法と結婚した」といわれるほどの信念で護憲派としての道を貫いた。同時に、「やるっきゃない」「ダメなものはダメ」などインパクトある名言を繰り出して、社会党委員長や衆院議長など数々の“女性初”の重責を担い、女性の地位向上にも貢献。

 

しかし、それほど強烈な印象を残した「おたかさん」が、いつしかフェードアウトするように世間から姿を消していた。土井さんは最晩年、求められても、誰ともいっさい会おうとしなかったという。

 

「多分、こんなに早くいろんなことができなくなるとは思っていなかったんでしょう。でも、一緒にテレビを見て、安倍さんの特定秘密保護法や集団的自衛権のニュースが流れると、とてもいら立っていました」

 

土井さんの死去を、護憲派や社会党的政治の衰退と結びつける論調の報道も多い。実際、戦争を知らない世代の安倍晋三首相のもと、集団的自衛権の行使容認が閣議決定されるなど、日本は土井さんが目指したのとは正反対の方向に邁進しているように見えてならない。土井さんが政治家生命を懸けて主張してきた護憲の思いは、結局、人々の心に届かなかったのか。

 

「あれほどの頑張り屋さんに対しては、もう、報われる、報われないじゃないんです」

 

辞職後も含めると、公私にわたり、実に51年もの付き合いになる2人。取材の間、終始、気丈に話していた五島さんが目を潤ませて言った。

 

「本当に身内だけで、寂しいお葬式と言う人がいるかもしれませんが、もういいんです。土井たか子という人がめいっぱい頑張ってきたのを私はすぐ隣で見てきました。だから最後にかける言葉も、『ご苦労さまでした』しかありません」

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