東京都港区にある東洋英和女学院は、『赤毛のアン』で知られる翻訳家・村岡花子の出身校で、その生涯を描いたドラマ、NHKの連続テレビ小説『花子とアン』に登場する修和女学校のモデルだ。卒業生たちは親しみを込めて「英和」と呼ぶ。
英和には教壇がない。先生たちは生徒一人ひとりの人格を認め対等に接した。だからこそ厳しかった。遠くカナダから身の危険を顧みず布教のために渡ってきた宣教師たちは、それまで能力を生かす道がなかった日本の女性が、世の中で生き抜く知恵を教え込んだ——。
今から130年前の1884年、ミス・カートメル宣教師によって麻布鳥居坂に開校した東洋英和女学校は、カナダ系メソジスト派のミッションスクールだ。建学の精神は「敬神奉仕」で、隣人を自分のように愛するという福音書の言葉などから取られている。
日本の女性の社会的地位や教育レベルが低かった明治の時代、男女は平等と教えるミッションスクールが設立された意義は大きかった。男女の差ばかりではない。教師と生徒でさえ、人としては平等であるという徹底ぶりだった。
より高等な教育を求めて、華族や富豪の令嬢などが集うなかで、花子のような給費生も寄宿舎で一緒の生活を送った。当時、寄宿舎は校舎と同じ木造4階建ての中にあり、生徒たちは2階と3階で生活。各部屋ではいろんな学年の生徒が共同生活を行い、裕福な子女のなかに給費生もいるという寄宿舎の存在は、英和らしさの象徴でもあった。
この寄宿舎は、学校が創立50年を迎えるころには建て替えられて、青楓寮となって存続し続ける。深く、ときに厳しい愛情に見守られ、日本人の子女がともに学び、成長していく。そこは、女性が女性を支え、助け合いながら自立を目指して生活する社会の先駆けのような場所だった。
「父が、『女性も手に職を持つべき』という考えの人だったんですね。自由な校風も気に入って、私たち3姉妹を英和に入学させたんです。私は姉のセーラー服に憧れて入学したのに、私の代からは国民服。戦時下という特殊な状況下で、青楓寮にいた学生さんの多くも、国元に帰されたんだと思います」
そう語るのは、かつて虎の門病院産婦人科医長を務め、わが国における女性医師の道を切り開いた堀口雅子さん(84)。堀口さんが英和で過ごした’30年代後半から’40年代にかけては、青楓寮の長い歴史のなかで唯一、寮が機能を失いかけた時代だった。
しかし、どんなに日本が戦時体制に急傾斜していっても、女子としての尊厳と最後の砦は守り続けた。終戦後には、寮を焼け出された青山学院の女子学生を青楓寮に受け入れ、まさしく女性同士で助け合った時期もあった。
「母は、青学の寮が火災にあったとき、同じキリスト教系の英和の青楓寮に身を寄せていたんです。その『困っている人のために』という精神と、入寮後に見た英和の学生たちの女子としての所作の素晴らしさを、幼い私は聞かされて育ちました」
こう話すのは、昨年6月にNHK経営委員に就任した公立はこだて未来大学システム情報科学部教授の美馬のゆりさん(53)。美馬さんは、母親の強い勧めで中学から英和へ進学した。青楓寮の精神は、各分野でさらに次の世代へと受け継がれていく。幼稚園から短大までを英和で過ごし、現在、テレビ番組の司会でおなじみの江口ともみさん(46)は次のように話す。
「(NHKの)ドラマを見ていると、英和という学校は、校風はほんわかしているんですが、一人ひとりを見ていくと、自分の道を見つけて自分の足で進むという、女性としての強さを身につけていると思います」