フィリピンの首都マニラ。港に隣接したゴミ置き場、別名「スモーキーマウンテン」。生ゴミや廃棄物が発酵し、化学反応を起こして、自然発火して出た煙があちこちから立ち上がる。裸足の子供たちが一心にゴミをあさっている中に、光安久美子さん(64)はいた。
「このゴミの山の景色が、私のフィリピンでの活動の原点なんです。’10年6月に初めてフィリピンに来たときは、汚いし臭いし、フィリピンは嫌いだなって思ったんですけどね。それが、なぜだか、彼らを見ていると涙があふれて。止まらなくなるんですよね。神様が慈善活動をしなさいと言っているのかなって思ったり。誰かに導かれているって、そんな気がしてしまって」
光安さんは、銀座でナンバーワンとうたわれた高級クラブ「グレ」を創業したママだ。60歳目前に、二代目ママに店を譲り、経営から身を引いた。そして、突き動かされるようにNPO法人「スマイル・オブ・ザ・チルドレン」を立ち上げて、慈善事業に乗り出したという。
’49年、門司市(現・北九州市)に生まれた彼女が物心ついたとき、家に父親はいなかった。年の離れた兄姉とは、父親が違っていた。まだ“未婚の母”には厳しい時代だ。幼い光安さんは人々の冷たい視線に傷つきながら育った。生活は貧しく、友人の家で見るぜいたくで美しいものに憧れた。大学を目指して友人を頼って上京。あるとき「銀座で働いてみないか」とスカウトされ、瞬く間に売れっ子に。26歳でお店を出し、多いときは1晩で1千数百万円を売り上げるまでになっていた。
37歳のとき、妊娠した。男性には家庭があった。それでも産もう、と決めたが、妊娠3カ月の健診時、赤ちゃんの心臓は止まっていた。
「それは長いこと、私のなかで尾を引きました。37歳って、母が私を産んだのと同じ年なんです。だから、これは神様の罰なんだなって。ぜいたくに憧れて、美しいものに囲まれて暮らしたいと、長年、銀座で頑張ってきたつもりでした。でも、そういうぜいたくは本物じゃないってわかってきちゃったというか。もちろん、自分の人生は否定したくはないのだけれど……」
現在、彼女が支援しているのは、マテラに本部があるNPO「カンルンガン・サ・エルマ」。
26年の歴史を持つストリートチルドレン支援団体だ。数万人はいるとされる路上生活者の子供の教育や生活支援、滞在型施設、さらには施設で育った子供の就労支援まで行う。
代表のソル・M・バルベロさんがポツリと言った。「教育支援を終えた卒業生は大勢いるけど、仕事がないの。就労支援のためにカフェをやりたいのよ」。その言葉に光安さんはがぜん、やる気になった。’11年2月、光安さんの経済的支援で「KSEMカフェ」がオープン。昨年4月にはパンの店「Artis Bake Shop」も出した。
しかし、マニラの人々は、よく言えばおおらか。でも日本人の目にはいい加減に映る。今年3月、光安さんがふいにカフェへ行ってみると、夜7時なのに閉店準備をしていた。営業時間は夜8時までのはず。理由を聞けば「昨日まで忙しかったから」と言う。パン屋も同様だ。午前3時に起きてパンを焼く決まりだが、ある朝、店に行くとパンがない。スタッフが目をこすりながら出てきて、「みんなで寝坊しました」と。
光安さんは、初めて本気でスタッフを叱った。
「本当に腹が立っちゃって『もうやめましょう』って、日本に戻ってきたんです」
4年前から、1〜2カ月に1度の頻度でマニラに通っていたが、今回はあえて3カ月と時間を空けた。
「おきゅうを据えるつもりでね。銀座で売れっ子になるコは10教えたら最低でも9できた。ところがマニラのコは、10教えて1。それすら怪しい。やっぱり私が近くにいて、教え込まなきゃダメかなぁ。彼らのおおらかさは仕事を抜きにしたら、本当にいい性質だと思う。自分も許されたいけど、他人もとことん許すっていうのかな」
気がつけば、日本人にはない彼らのおおらかさで、光安さんの心も癒やされていた。
★光安さんのフィリピンでの慈善活動に関心のある方は『スマイル・オブ・ザ・チルドレン』ホームページへ
http://www.smilechildren.or.jp/