東京・馬込の住宅街の片隅に『月刊ねこ新聞』の小さな編集部はある。6畳ほどの部屋に、デスクやパソコン、プリンターが所狭しと並んでいる。『ねこ新聞』と聞くと、愛猫家の趣味と思う人もいるだろう。だが、その美しい紙面を見れば、道楽の域などを超えていることはすぐにわかる。

 

「うちの新聞はね、毎号必ず、表紙に猫の絵と猫の詩をセットで載せるんです。表紙の美しさが売りでもあるんです」

 

そう話すのは副編集長の原口美智子さん(74)。タブロイド版8ページの最新号(’14年9月号)の表紙は、夏目漱石や吉川英治の小説に挿絵を描いた小沢良吉の「フィフィ」の絵と、詩人で童話作家の岸田衿子作「あかるい日の歌」の一節だ。

 

これまでの執筆陣がまたすごい。浅田次郎、野坂昭如、山田洋次、群ようこ、横尾忠則……。有名作家が名を連ね、猫にまつわるエッセイを掲載。現在も森村誠一が連載中。今年で創刊20周年。現在の発行部数は3千部ほどだが、各界に熱烈なファンがいる。

 

『ねこ新聞』は編集長で夫の原口緑郎さん(74)が、銃弾飛び交う中東でビジネスに外交に活躍しながらも挫折し、一転、世の中に癒しを提供するべく’94年7月に創刊。紙面を飾ったのは、児童文学の巨匠・松谷みよ子のエッセイ。創刊時は夫婦とも編集も出版もズブの素人だった。

 

発行部数も順調に伸びたが、間もなく創刊1周年というとき、思いもよらぬアクシデントに見舞われる。夫婦で編集作業をしていた’95年5月。緑郎さんが脳出血で倒れたのだ。開頭手術は9時間に及んだ。一命は取り留めたものの、後遺症から緑郎さんの左半身が完全まひになってしまう。『ねこ新聞』は休刊の憂き目に。

 

「私のなかでは、廃刊と思っていましたよ。蓄えを取り崩してまで、作ることはできないと思いました」(美智子さん)

 

実は『ねこ新聞』には広告がない。もうからないどころか赤字続きだった。美智子さんは、緑郎さんが諦める日を待っていた。と、そこに、既報の『ねこ新聞』を1冊の本にしたいという依頼が舞い込む。

 

「そしたら原口が予想以上に張り切っちゃってね」(美智子さん)

 

それからの緑郎さんは、復刊を目指してリハビリに励んだ。その執念が、猫の神様に通じたのだろうか、ある日、毎日新聞社から『ねこ新聞』を毎月1回一部転載したいという電話が入る。転載料は1回50万円。美智子さんも渋々ゴーサインを出して、’01年2月。6年近い休刊を経て、『ねこ新聞』は復活する。新聞読者からの購読申し込みも入り、経営は持ち直した。

 

8年間の提携が終了するころには、読者はもちろん、執筆陣も、『ねこ新聞』の熱烈なファンになっていた。’10年には、ファンが「ねこ新聞を支える会」を設立。有志が集い寄付を募る。

 

「皆さんのおかげで、無事に20周年を迎えることができました。私ね、原口がお金に奇麗に生きてきたでしょ。そこで徳を積んだから、困っているときに、救いの手が差し伸べられたって思うんです」(美智子さん)

 

ファンを思えば1号たりとも手は抜けない。美智子さんは、今では緑郎さんの片腕として、編集作業を取り仕切る。

 

「おととし、日本エッセイストクラブの会長が『ねこ新聞』を菊池寛賞に推薦してくださって、毎日新聞社からも『毎日出版文化賞にご応募を』って、連絡がくるようになったのね。無理に決まってるって気持ちもあるけど、私は主人に何か一つ大きな賞を取らせてあげたいの。元気なうちに、無冠を返上させてあげたいの」(美智子さん)

 

『ねこ新聞』の題字の下には、復刊以来、四字熟語が記されている。「富国強猫」。緑郎さんの造語だ。

 

「この言葉はね、猫がゆっくりと眠りながら暮らせる国は、心も富む国。という意味です。かつて『富国強兵』という言葉がありました。僕はそれではいかんと思う。僕は、中東で生の戦争を体験した。だから、思う。強兵はいかん。強猫でなくては、と。今もね、政治家たちが時代をまるで巻き戻そうとしてるでしょ。バカな政治家たちのおかげで猫もおちおち昼寝もできやしない。だからやっぱり僕たちが目指すのは富国強猫の世の中なんですよ」(緑郎さん)

 

愛読者に支えられ、『ねこ新聞』は2年後、創刊200号を迎える。その2カ月後が原口夫妻の金婚式だ。その日を2人そろって迎えたいというささやかな夫婦の夢はきっと、かなえられることだろう。

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