「当時は、女性教諭は55歳定年と決まっており、男女差が歴然としていて、昇進の道も閉ざされていました」
そう語るのは、女流作家として56歳から26冊の著作を世に送り出してきた中島道子さん(86)。中島さんは、55歳で福井県三国町の公立中学を退職。その後、冒頭のような悔しさもあり、上京し男女の差別のない作家の道を志す。だが、次に彼女を阻んだのは、年齢の壁だった。
「やる気と年の功だけはあり、作品を抱えて出版社を回りました。けれど、『その年で!』という対応に何度電車の中で泣いたことかわかりません」(中島さん・以下同)
しかし、尊敬する伊能忠敬、小野田寛郎氏も「50過ぎての再出発」と心を前向きにした。そして、世の中捨てたものではないと思い直したのも、この世界だった。
「『50代で書き始めるのならば、女の書けないものを書けるはず』だと、ある出版社の方からいただいたアドバイスが大事な一言になりました。女性が書くものは大抵、情に訴える内容。私は男子学生を教え、男子を2人育てた経験から考えたのは歴史小説です。私は国語を教えたけれど、生徒から『歴史の話をもっとしてくれ』とせがまれるほど歴史が得意でしたから」
50代の自分にしか書けない切り口は?思いを巡らせたどり着いたのが、戦国武将、明智光秀とその妻熙子だった。それからは歴史的資料の少ない糟糠の妻を丹念に調査し、現地へ足を運び、’88年に『明智光秀の妻煕子』(紀尾井出版)を認められ出版が決まった。
「彼が逆臣といわれたのは忠君愛国の精神が尊ばれた明治から。それまで信長の横暴に対して光秀の謀反は同情的に理解されていて、実際、民政にも優れていたという人物。その妻である煕子は、夫の面目を保つために髪の毛を売り坊主頭になった逸話も残す勇敢な女性。いまの女性にこれだけの勇気がありますか?」
光秀を支えた賢妻煕子に焦点を当てた作品は、中島さんによる著作のみ。
「脚光の当たらない女性に魅力を感じます。注文をいただいて書くこともありがたいけれど、自分が引かれる女性を描ききって世に知らせたい。歴史は史料に残らない秘められた部分にこそ魅力があります。50歳を過ぎての出発だからこそ、誰も歩かなかった道を探し続けるべきなのです」