「3年ほど前、写真家の嬉野京子さんが撮った写真を見たときの衝撃は、言葉にできません。ちょうど長女が幼稚園児のころで、写真の中の女の子とダブって見えたんです」

 

国頭郡本部町で喫茶店を営む知念さおりさん(34)は、その怒りが基地問題と関わる転機のひとつだったと語る。その写真とは1965年、本土復帰前の沖縄の宜野座村で、3歳くらいの少女が米軍のトラックに轢き殺された直後のモノクロ写真だ。

 

通園バッグを持ったまま道路で絶命した少女のそばには、突っ立っているだけの米兵数人。公務中の米軍兵が起こした事件は、日本が裁くこともできない日米地位協定のせいで、日本の警察は容疑者のアメリカ人運転手を逮捕できないばかりか、米軍車両の円滑な通行のために交通整理をしていた。母親も、すぐにはわが子を抱けなかった。

 

「今も私たちは、ふだんの生活のなかで基地のアメリカ人が横暴な運転をするところを見たり、戦闘機の爆音を聞いているんです」(知念さおりさん)

 

半世紀も前の写真の少女の時代と、何ら変わっていないのではないか−−。その逼迫した思いが後押しし、2年前に沖縄の基地問題を考える雑誌『ピクニック』を夫・正作さん(36)とともに創刊することになった。一見、女性向けフリーペーパーかと見紛う雑誌の作りには、興味のない人にも手に取ってもらいたいとの思いが込められている。

 

「今の僕の敵は無関心。自分の考えを持たずに生活している人たちです。ただ、僕らも同じでした。ちょっとしたきっかけで動いてきたんです」

 

3月最初の日曜日、知念さん夫婦は子供とともに、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲート前にいた。「辺野古への基地移設を許すな!」という抗議活動は平日は100人ほど、土日には3千人も集まることがある。

 

’95年の米兵少女暴行事件の後、世界一危険な米軍基地とされる普天間飛行場の移設問題が持ち上がり、’97年に移設先として名前が挙がったのが辺野古だった。東京ディズニーリゾートの約2倍の広さともいわれる移設予定地は、ジュゴンの生息地としても知られ、住民の生活の場でもあった大浦湾などの美しい海が埋め立てられようとしている。

 

昨年7月、辺野古の新基地建設が着工されたと同時に、かつてない激しい抗議活動が始まった。移設反対派の人たちがゲート前に張られたテントに集まり、24時間態勢で監視。基地建設車両が出入りする際は、ゲートの前に立ちはだかり、命がけの抗議活動を展開している。同時に、埋立て工事が進む海上でも、通称カヌー隊が海上保安庁と衝突し、ケガ人が続出しているが、沖縄以外ではほとんど報じられていない。

 

「基地がなければ、戦争はこないんですよ。二度と戦争はあってはならない。もう、ウチたちでたくさんですよ。だから、私はかわいいおばぁになってはいけないわけ。鬼にならんとね!」

 

こう語る島袋文子さん(85)は、その一心で、今日も朝から痛めた膝を庇いつつ、梅干しとお肉の入った弁当を抱えゲート前まで出かけていく。

 

「もし本土の人が沖縄は米軍部隊がいるから生活できているんでしょう、という感覚をいまだに持っているとしたら、それは大きな間違いです。私も生きている間にひとつくらいいいことをやろうと思っているけどね、なかなか……。私ができるとしたら、この基地を止めることくらい。それができたら、明日天国にいっても、思い残すことはありません」(島袋さん)

 

やがて、沖縄に日本でいちばん早い夏が訪れると、辺野古でも本格的な基地移設の工事が始まる。

 

「政治を変えるのではなく、自分たち一人一人を変えなければ、世の中も変わらないと思います。たしかに、自分たちの代では解決するとも思えません。だから、辺野古の現実も子供たちに一緒に見てもらいたいんです」(知念正作さん)

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