病室に、ゆったりとした足取りでゴールデンレトリバーのベイリー(オス・9)が入ってきた瞬間、退屈そうにベッドに横になっていた庄司蒼くん(10)は満面の笑みを浮かべた。神奈川県立こども医療センターの小児病棟。塞ぎがちなわが子を心配していた母の智子さん(42)もつられて笑う。
「突然の入院生活に落ち込んでしまって。蒼は私がどんなにすすめても、棟内のプレースペースにも行かず、病室から出たがらなかったんです」(智子さん)
入院から数日後、犬を指揮するハンドラーの森田優子さん(36)に連れられて、初めてベイリーがやってきた。最初は、おずおずと視線を向けるだけの蒼くんだったが、やがてベイリーがとても人なつこく、おとなしいことがわかると、ベッドの上で遊び、添い寝もしてもらった。翌日からは、朝の診察を終えると、ベイリーを待ちきれない様子だった。
「『ベイリー、早く来ないかな。ベイリーをお迎えに行きたい』とせがむようになり、気付いたら、車いすで病室の外に出てました(笑)。ベイリーが一緒だとごはんもよく食べてくれます。蒼は難しい病気で薬も多いのですが、かんばって飲むようにもなりました。でもまさか病棟に犬がいるなんて、正直、私も驚きました」(智子さん)
純白の毛並みが自慢のベイリーは、日本第1号のファシリティドッグ。医療現場で活動する使役犬だ。病室内で愛玩されるペットではなく、“医療スタッフ”の一員という位置づけで、パートナーでもあるハンドラーと一緒に、毎日、病院に通勤している。
子どもたちの入院が長引く場合は、早朝から深夜まで付き添う家族の心身の負担も大きくなる。
「蒼の入院生活は半年に及びました。当初の蒼は落ち込みがちで、そんな子どもを見ているのがつらくて、付き添っている私まで前を向けなかった。だから、ベイリーには救われました。なんといっても、あの存在感! ベイリーがいてくれるだけで、どんよりした病室の空気がかわるんです」(智子さん)
’10年1月、ハワイのトレーニングセンターでハンドラーの訓練を受けた森田さんが静岡県立こども病院にベイリーと共に着任して、日本での最初の活動例となった。オーストラリア生まれのベイリーは、盲導犬や介助犬を多く輩出した“家系”に生まれた。生後半年から同じくハワイで訓練を受け、1歳になるころに日本へやってきた。
「おっとりした犬だなぁ、というのが第一印象。日本初の試みで不安もありましたが、このコとなら、うまくやっていけると思いました」(森田さん)
静岡県立こども病院で2年半勤務したあと、ベイリーと森田さんは神奈川へ。
「神奈川のこども医療センター近くのマンションで、私とベイリーは“二人暮らし”をしながら、平日の10~16時に小児病棟に通う毎日。1日平均15人の子どもたちの病棟を訪問します。病院以外では、ベイリーは私のふつうの家族。“オフ”にはお散歩したり、ビーチに遊びに行ったりして過ごしていますよ」(森田さん)
一緒に遊んだり、治療時にそばにいるだけでなく、ファシリティドッグは歩行訓練や運動療法に付き添ったり、ときには手術室に一緒に入ることもある。
「手術室の手前の待合室で、ベイリーと私と一緒に待っていたお母さんが、ベイリーにすがりながら涙されたことも。初めて感情を吐き出せたんですね。ファシリティドッグの役目の半分は、親御さんのためという実感があります」(森田さん)
森田さん自身が、家族の話相手になることもある。4年以上の医療現場での臨床経験は、ファシリティドッグのハンドラーの条件の1つで、森田さんも看護師として5年間勤務した経験がある。家族の要請があるときには、子どもの看取りの場面に、ベイリーが付き添うこともあるという。病院にとっても、ベイリーは大切な医療スタッフという位置づけだ。
「ベイリーがいると子どもたちが苦手な採血をがんばれるので、最近では先生のほうがベイリーの訪れる時間に合わせて採血することもあります」(森田さん)
医療現場でのこんなデータもある。
「手術後の1~3日間に1回でも犬と接した子どもは、身体・精神的な痛みの割合が低下する」(米チルドレンズホスピタル・サンディエゴ)
だが、日本では導入から7年がたってもファシリティドッグの認知度は低い。活動犬はわずか2頭のみ。アメリカでは年間50頭近い育成例がある。
「理解不足や経費の問題もあると思います。感染症の問題も指摘されますが、これまで感染事故はゼロです。『病院にファシリティドッグがいるのが当たり前の社会』が私たちの目標です」(森田さん)
この9月には、3頭目のアニー(ゴールデンレトリバー・メス・1)がファシリティドッグとして着任し、森田さんのもとでベイリーと共に訓練を始めた。来春にはいよいよ、東京都の公的病院への導入が予定されている。