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「今までどんだけ日用品やらお金やら、武志に運んだかわからんわ。テーブル、オルガン、じゅうたん、布団、ビデオデッキ、食料、衣類。なんでも、私が運んだがよ。今回も、中学3年生になる武志の孫が、私が持っていったサバ缶をうまそうに食べとった。サバをちょこっとだけ大事そうに食べては、ご飯を、わぁーっと、かき込むんや。それでサバ缶にふたをして、『学校から帰ったら食べるから、食べないで』と。あの姿を見たら、せつのうてな。これが最後の訪朝やと思うとったけど、また行かんとおられんわいね」

 

寺越友枝さん(87)は今年4月、北朝鮮に住む長男の武志さん(68)を訪ねたときの心情をそう語る。実に66回目の訪朝だった。

 

武志さんは今から55年前、13歳のとき、石川県能登半島沖の海で行方不明になり、23年後に北朝鮮で生存が確認された。以来、友枝さんは武志さんに会うために北朝鮮に通い続けてきたが、この5年間、体調を崩し訪朝がかなわなかった。回復した今回が最後のチャンスと考えて訪朝に踏み切ったのだ。

 

「武志は、私が誰かに抱えられながら来ると思うてたようで、私が自分の足で歩いとるのを見て、すぐ家族に電話して、『ばあちゃん元気やぞ!』と、報告しとった。そしたら家族みんな、泣いて喜んでくれたって」

 

現在、北朝鮮の平壌で暮らす武志さん。’63年5月11日、叔父の寺越昭二さん、外雄さんと高浜港(石川県)から小型漁船に乗って漁に出たきり行方不明になった。中学に上がったばかりだった。

 

「当時、寺越家は子どもだけで6〜7人おって、そのうえ貧乏。武志は、兄妹の子どもとようケンカする“きかん坊”やったさかい、『仕事もせんのに、ご飯ばっかり食べよる!』と、姑から目を付けられて、肩身のせまい思いをしとったんや。漁の手伝いをしたら、500円くらいはもらえる。だから私は、『はよ、漁に出てこい!』言うて、あの日も、まだ昼食のコロッケをほおばる武志を急かせて、漁に行かせてしもうた――」

 

警察や村の人々による捜索が続いたが見つからず、捜索はわずか1週間で打ち切りに。遺体も揚がらないまま葬儀が行われた。

 

武志さんが失踪して23年目の’88年1月。友枝さんの母心を激しく揺さぶる事件が起こる。

 

「武志の23回忌が終わったころ。いつまでも『武志、武志』言うていたらいかん。区切りをつけようと思うて、失踪後、海に浮かんでいた学生服を’87年の12月に処分した。その1カ月後やった。武志と一緒に行方不明になった叔父から寺越家の次女の元に、『北朝鮮で生きとる』という手紙が届いた。次女から、『武志は生きとったぞ』という電話を受けたあとのことは、気が動転してよう覚えとらん。あわてて実家の母に電話をしたら、『頭がおかしゅうなったか。明日行くからしっかりせい!』と言われたことだけは覚えとる」

 

武志さんらが北朝鮮で生きていたことは日本で大きく報じられた。

 

「なんとか訪朝させてくれ、と代議士の先生にお願いして、その年の8月、夫と私が行けることになった。渡航費はどうしようかと思うとったら、『これで武志になんか買ってやれ』言うて、実家の母が、100万円をくれたんや。向こうに着いても、観光に連れ回されるばかりでいっこうに会えん。やっぱり、武志が生きとるなんてウソや、と思い始めた3日目。通訳の人が、やっと武志と叔父を、平壌のホテルに連れてきてくれた。通された部屋に入ったら、男性が2人立っとった。1人は、武志と一緒に行方不明になった外雄やとすぐわかった。けど、武志には昔の面影がない。記憶の中の武志は、くりくり坊主のままやった。『武志か!』と呼んだら、うなずいとるが、実感がわかん。それで、『ちょっと額を見せてくれ』言うて、武志に髪をかき上げてもろうた。本物の武志やったら、幼いころにバットがあたった傷が残っとると思うてな」

 

額にその傷はあった。その瞬間、友枝さんの目から大粒の涙がいくつもこぼれて止まらなくなった。

 

「『武志! 堪忍してくれ! お母ちゃんが漁に行けと言うたばっかりに……』謝っても謝り切れなんだ。なんで北朝鮮に来たんか。なんで今まで連絡できんかったんか。聞きたいことは山ほどあった。けど、いつもそばには監視員が付いとるから親子水入らずで話すこともできん。叔父が、『漂流しとったら北朝鮮の船に助けられた』と説明してくれたが、信じられん。何度も、武志に『本当か?』と聞いたけど、『信じてください』と言うばかりや。そのあとの訪朝でも何度も尋ねたが、『お母さん、お墓で話しましょう』と。息子の武志がそう言うんやから、母として信じようと決めたんや」

 

武志さんは、金英浩(キム・ヨンホ)という名で朝鮮人として暮らし、北朝鮮人の妻をもらい、子どもを3人もうけていた。

 

一度会えば、二度、三度会いたい。友枝さんは、掃除のパートで渡航費を稼ぎ、空白の23年を埋めるように訪朝を重ねた。

 

「武志に再会してからは、どぶの中に手を突っ込んでも金もうけせないかんと思うた。万景峰号が就航しとったときは、片道5万円で乗せてもろうたけど、就航がなくなってからは飛行機や。武志家族への土産代や、渡す金も入れたら、一回の渡航で60万〜70万円は必要や。武志から、『これを買いたいからお金を送ってください』ちゅう手紙も届く。そのたびに5万円は送らんならん。そやさかい私は、北朝鮮には66回も行っとるが、普通の旅行はしたことないがよ」

 

友枝さんが必死になってお金や物資を運ぶのには、こんな親心があった。

 

「武志らの生活をちょっとでもラクにしてやりたいんや。北朝鮮では日本製が重宝されるさかい、人にやっても喜ばれる。売ってもお金になる。この間も、日本製のカフスボタンを持って行ったら、武志の嫁は、孫の担任にプレゼントしとった。そしたら孫の勉強をよう見てくれるんやて。孫にパソコンも買うてやった。パソコンがあったら、つらい肉体労働をせんでも、事務仕事がもらえるんや」

 

何度訪朝して息子に会えても、そのつど、別れはやってくる。

 

「数回目の訪朝のことや。帰る前日に武志と一緒の部屋で眠とったら、私のすぐ横に武志が来るがよ。私は、『武志、どうした。おまえ胸が苦しいがやろ? お母さんに本当のこと言え。なんで北朝鮮に来たがや』と聞いた。武志はつらそうに黙っとる。だから今度は、布団に手を入れて武志の胸や手をさすってやった。明日、この子を置いて帰らないかんと思うたら、涙が出てな……。こんなに子離れができんのは、私くらいか思うて、帰りの船で一緒になった在日朝鮮人の男性に聞いたら、『僕も夕べ、母と一緒の布団で眠りました』と言うんや。『苦労させた、かわいそうなことした』言うて、お母ちゃんに足やら腹やら、ずっとさすられとったって。それを聞いて、私も普通の母親なんや、と思うたわ」

 

経済制裁の影響か、この5年で、北朝鮮の状況は変化していた。

 

「もともと貧しい国やったが、今まで嫁と子どもにもあった配給の米が、この前行ったら武志にしか配られんようになっとった。1カ月10キロや。それを、武志夫婦や子ども、孫8人で分けおうて食べとった。水も貴重やさかい、米をとぐのも2回まで。そのとぎ汁も捨てずに皿を洗うんや。今、平壌で電動自転車がはやっとるいうから買うてやったけど、大きな荷物を持ってる人を見たら運んでやるんやて。そしたら、きゅうりの1本でも鶏肉の1枚でも、もらえるやろ。そんな様子を見とったら、『これが最後の訪朝や』とは言い出せなんだ」

 

友枝さんの援助のおかげもあって、武志さん家族の暮らしは、北朝鮮のなかでは豊かなほうだ。それでも息子に対する心配は募る。

 

「北朝鮮では70歳まで生きりゃええほうや。あの子はもう68歳。糖尿病で痩せて、若いころはハリがあった足も細うなった。今、武志の生きがいは子どもと孫。自分が生きとるうちに、子や孫にお金も残してやりたいやろう」

 

友枝さんは武志さんを守るために、命ある限り訪朝を続けるつもりだ。

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