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「2階のあの部屋が、自分も学んでいた5年生の教室でした。下校の『さよなら』の寸前に揺れが来た。『津波が来るよね』とみんなで言い合っていたんですが……」

 

校舎を見上げてこう振り返るのは、’11年3月11日の東日本大震災による津波にのみこまれながら生還し“奇跡の生存児童”といわれた只野哲也さん(20)だ。現在は東北学院大学2年生で、津波の“語り部”としても活動している。

 

宮城県石巻市・大川小では児童74人が死亡・行方不明となった。地震から約50分もたった後に、教職員の指示で避難し、津波にのまれたのだ。そのなかには哲也さんの妹で3年生だった未捺さん(享年9)もいた。また、哲也さんは妹に加え、母・しろえさん(享年41)、祖父・弘さん(享年67)と津波で家族を3人も亡くしている。

 

あの日から9年。仲間が眼前で流されていくという壮絶体験をした哲也さんが、忘れられない体験を振り返る。

 

「あの地震後、校庭に出て学年順に並びました。気持ち悪くなったのか、吐いている子もいた。その後に地元の住人の方や保護者が来て、引き取りも始まったんです。そのあと『50分くらい』ですか、結構な時間がたって、先生の誘導で避難を始めた。自分は裏山に行くと思っていたんですが、実際は『(河川堤防の近くの)三角地帯に行きます』と言われたんです」

 

移動開始直後、教頭に「津波が来たので早く移動してください」と言われ、小走りに進もうとしたが……。

 

「砂煙がパーッと上がるように波がこぼれ、飛行機の轟音のような音がした。自分は踵を返して走って山に登ろうとし、3~4メートルほど登ったあたりで首になにかがぶつかり、気絶してしまったんです」

 

哲也さんは失神したが、山の斜面で体が半分ほど土砂に埋まった状態で救出され、山で住民や市職員らと合流して夜を明かした。亡くなった祖父、母、妹には、次のような思いを抱いている。

 

「祖父は『地震が来たら、山さ逃げろよ』が口癖でした。地震直後、自分もその言葉が頭をよぎっていたんです。母は一度校庭に引き取りに来てくれたんですが、忘れ物を取りに自宅に戻ったのが、生前に見た最後でした。自分がヘルメットを渡そうとしたら『あんたがかぶってなさい』と押し戻された。あれがなければ自分は助からなかったかもしれない。妹は、生きていれば18歳。でも自分の中では、あのころの9歳のままの姿で変わらないんです……」

 

震災から9年たって、変わってきたこともある。

 

「大川小の敷地で50回以上ガイドしてきましたが、見学者の中には観光気分で、校舎をバックにピースして集合写真を撮る人もいる。どんな場所かくらいは予習してきてほしいんです」

 

校舎は’16年3月に「震災遺構」として保存されることが決定。「校舎を残してほしい」と訴えてきた哲也さんの願いはかなったが、「どんな形で残るか」の具体的説明はないまま工事に入り、嵩上げなどが進んでいる。

 

「『校舎を見ると思い出してつらい』という方もいるため“公園化”も悪くないんですが、教訓を伝えられるように、景観を一変させないでほしい。自分は被災を『千年後にも伝えたい』という思いでいます。『復興』だけではなく、忘れずに振り返ることも必要です」

 

哲也さんは成人式も終え、自身の将来像をこんなふうに描く。

 

「芯が強く、人の恩を忘れず地元で信頼されている祖母(=アキ子さん・73歳)の影響も強いんですが、緊急時や災害で人を助ける仕事に就きたいと思っています。地域密着で仕事したいので警察か消防でしょうが、この巨体(95キロ)では火災時に閉所にも突入しなくてはいけない消防士は不向きでしょう(笑)。柔道(二段)を生かせる警察官を志望しています」

 

(取材・文:鈴木利宗/撮影:加藤順子)

 

「女性自身」2020年3月24・31日合併号 掲載

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