■駆け落ち婚を妹だけが応援
学習院大学に通っていたNさんではあったが、父親は平凡なサラリーマン。元皇族との境遇の差は大きかった。通子さんは、父や叔父、叔母にも取り合ってもらえず、結婚の許しが出ないまま月日が過ぎた。家族の中で唯一の味方はすぐ下の妹たった一人だったという。
大学で出会った一般人男性と恋に落ちるも、家族からは結婚に反対され、味方は妹だけ――。佳子さまの応援だけが頼りといういまの眞子さまの境遇とぴったり重なってくるのだ。近現代の皇室に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんはこう語る。
「通子さんは戦後、皇籍を離脱したとはいえ香淳皇后の兄の娘という天皇家に非常に近い存在でした。一方で、そうした特権的な世界に育ったことに戸惑いや窮屈感を覚えていたようです。当時は、結婚は親や周囲の大人たちのすすめで決めることであり、双方の家の経済的地位や格式などのバランスが強く求められていました。そうした中で通子さんは、個人の自我や自立を求めて行動した稀有な女性といえます」
猛反対を受けていた通子さんだが、転機となったのは父の危篤だった。病室に駆けつけると、婚姻届を渡された。やっと結婚の許しが出たのだ。Nさんと出会ってから約6年の月日がたっていた。
新居は東京・飯田橋の2部屋しかないアパート。ほとんど身一つ、家族からの援助も受けずに2人の新婚生活は始まった。父が通子さんと親交があったという旧華族の女性はこう述懐する。
「私の父が通子さんのことを話していたことを覚えています。結婚するときに通子さんは『家名を汚した、二度とこちらに戻ってくるな』『連絡もしない、手紙も書いてこないように』と言われたのだそうです。お金の無心をするなという意味だったのでしょう」
通子さんは結婚前から始めたタイピストの仕事をしながら、なれない炊事や洗濯をする生活を楽しんでいたという。だが、結婚生活は長くは続かなかった。たった4年ほどで2人は別れることになってしまったのだ。通子さん自身は本誌に《憎みあって別れたのではないんです》と、多くを語ってはいない。一方、当時本誌はお相手だったNさんにも話を聞いている。
《わたしはね、久邇家の親族すべてに反対されながら、それを押し切って嫁入りした彼女を、どうしても幸福にしなければ、と思ったんです》
Nさんは懸命に働き、1カ月で174時間の残業をしたこともあったという。2万坪の宮邸には及ばなくてもそれなりの邸宅を建ててあげたい――。Nさんはそんな“野心”を抱いて仕事に打ち込み、超猛烈社員になってしまったそうだ。