■42歳のときに猿若流に入門。情けなくて悔し涙に、歯を食いしばって稽古を続けた
「体が回復してきて少し自信がついたので、先生のもとを離れて、個人で踊りを教え始めました」
40代になる少し前。週1回、近所に場所を借りて教室を開いた。ちょうど同じころ、厳しく育ててくれた父が他界してしまう。
「残された母の提案で、実家を建て替え、同居することになって。ついでに、家に稽古場も作ったんです。すると母が、言うんです。私に稽古場を持たせるのが、父の最後の夢だったと。それを聞いて思い浮かんだのが『始めたからには結果を出せ』という父の言葉。父が望んだように、私は踊りの先生に。この稽古場で開く教室が結果の1つかなって思いましたね」
ところが、ここでまた問題が発生する。笈川さんの師匠が、踊りの流派を破門されてしまうのだ。
「ゴタゴタに巻き込まれ、私の弟子のほとんどもやめてしまって。私、つくづく踊りの世界に嫌気がさして、扇子を置こうと思いました。でも、2人だけ残った弟子から『先生にずっとついていきます』と言われ、困っちゃいましてね」
人に教えるには自分自身、常に学んでいかなくてはならないと考えた笈川さんは、つてを頼り新たな師を探した。そしてたどり着いたのが、猿若会主宰で紫綬褒章も受章した名人・猿若清方だった。
「大先生のところにうかがって、こちらの事情を説明したんです。すると大先生は『過去の話は必要ない。この先、本気で芸を習おうと思うなら僕のところに来なさい』、そう言ってくださって」
こうして、笈川さんは猿若流に入門。42歳のときだった。
「でも、大先生の稽古は心身ともにキツかったですよ。やることなすこと、ダメ出しばかりで、最初の3カ月はずっと泣いてました」 猿若流の踊りは、これまで学んできたものと、まるで違っていた。
「猿若は動きも振りも大きく力強い。筋力も必要です。『そんなチマチマした踊り方じゃダメだ。うちの踊りに、そんな無駄足はいらないんだ!』とよく怒鳴られました」 さらに、容赦ない言葉も浴びた。
「あなたは体を壊し、つらい思いをしてきたと言うけれど、幼いときから正しく踊ってさえいれば、体のゆがみなんて出るわけないんだ!」
自分の半生がまるで無駄足だったと言われた気がした。毎回、稽古のあとには悔し涙があふれた。
「情けなくて。40年近く何やってきたんだろうって。遊び半分で踊りをやってきた、これが報いだと」
それでも歯を食いしばって、サーフィンにも劣らないハードな稽古に励んだ。すると、およそ1年後には異例の早さで名取に。「猿若清紫惠」という名前をいただいた。そして’01年には師範にも。
「驚いたのはね、師範になったころだったかな、病院でレントゲンを撮ったの。そうしたら、側彎症がほとんど治ってた。大先生のハードな稽古と、教わった正しい踊り方で鍛えられた筋肉が、骨のゆがみを矯正してくれていたんです」