「清掃済みの部屋と、そうじゃない部屋は、どこを見てチェックしますか?」
開業間もないホテルの、真新しくシンプルなフロントデスクで、同ホテルの社長を務める女性が、パソコンのモニターをのぞき込みながら、こんな質問をしていた。
問いかけられた若い女性スタッフは、緊張した面持ちで「それは、こちらで……」と、少しぎこちない仕草でパソコンを操作している。
「なるほど、そうね、ここで見るのね。ところで、なんでこの2つの部屋は、表示が『ダーティ(未清掃)』のままなの?」
社長はモニターを指さし、問いただす。女性スタッフは「今朝、チェックアウトした部屋だと思いますが、表示がそのままの理由は……、わかりません」と、少々しどろもどろだ。聞けば彼女、入社してまだ1週間だとか。社長を相手に、硬くなるのも無理はない。
「そう、今日チェックアウトした部屋ね。じゃ、その表示については、誰に確認したらいい?」
女性スタッフは「それは……、早番のかたに」と答えるのが精いっぱい。すると、それまで厳しいまなざしを彼女に向けていた社長の顔に柔らかな笑みが。
「そうね。では、私とあなた、2人で確認しましょう。私も勉強中。だからね、一緒にやりましょうね」
安堵の表情を浮かべた女性スタッフ。記者が「怖い社長ですね?」と声をかけると、襟を正して「そんなことは、ありません」とキッパリ。そばで見ていた社長、今度は満面の笑みを浮かべながら「これからだよ~」と戯けてみせた。
今年7月、東京・新橋に開業した外資系ホテル「LOF HOTEL Simbashi」。同ホテルを運営する日本法人の社長に、今年5月に就任したのが、薄井シンシアさん(62)だ。
社長として多忙な日々を送る薄井さんだが、じつは、14年前までは、家事と育児に専念する専業主婦だった。仕事に復帰したのは07年、48歳のとき。初めは、夫の赴任地のタイ・バンコク。本人いわく「給食のおばちゃんからの再スタート」だった。その後、日本に戻り会員制クラブの電話受付、有名ホテルの副支配人、大手飲料メーカーのホスピタリティ担当などを歴任。4年前には『専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと』(KADOKAWA)という本も上梓。そして、ついに今年。企業のトップへと上り詰めたのだ。
はた目には、奇跡のキャリアアップに見えるが、当人にしてみれば必然だったようだ。今回の取材でも、そして、講演会に登壇しても、「専業主婦だったからこそ、いまの私はある」と力をこめる。
「複数の作業を同時に行うマルチタスクが求められる専業主婦ほど、クリエーティブな仕事はないんです。少子高齢化で人手不足のこの国で、専業主婦の持つ能力は、もっと注目されるべき。専業主婦は社会に眠っている財産です」
言葉どおり、社長に就任以来、観光業界で働いた経験のない多くの専業主婦やシングルマザーを、何人も採用してきた。彼女たちをサポートするため、職場に泊まり込むことも少なくない。
「オープン当初は毎晩、ホテルに泊まってました。毎日、ずーっと、ここにいましたよ」 こう言うとまた、薄井さんは朗らかに笑ってみせた。