■第一の使命と決めた子育ての末、娘はハーバードに。しかし、日本での再就職に難航
フィリピン・マニラで生まれた薄井さんは封建的な教育方針を持つ父に反発し、高校生の時に日本に国費留学を果たす。東京外語大に入学し、貿易会社に就職した。知り合った外務官僚の男性と結婚したのち、長女を出産。
「私、仕事大好きだから、戻るつもりだった。でも、子供の世話をするうちに、気づいたんです。『この人を育てることが、私の最大の使命なんだ』と。もし、失敗したら、私は一生自分を責めるだろう、それは受け止めきれない。それが、はっきりわかったから、専業主婦になる決断ができた」
以後、外交官の夫について海外を渡り歩きながら家事、育児に心血を注いだ。果たして長女はアメリカの名門・ハーバード大学に進学。
子育てから解放された薄井さんは「無理やり、退職させられたような喪失感を味わった」という。
「2つのことを考えました。1つは、もう専業主婦でいる理由はないということ。もう1つは、『将来、ママみたいになりたい』と言ってくれた娘に、一度、専業主婦になったらキャリアは持てないと思わせてはいけない、そう思った。専業主婦を経てもキャリアアップできると証明しないといけないと」
ちょうどそのころ、長女が通ったバンコクの学校から「カフェテリアで働かないか」と誘いを受ける。こうして「給食のおばちゃん」として仕事に復帰。そこで薄井さんは、持ち前のスキルを存分に発揮した。
「自分は英語もできたし、引く手あまたとまでは言わなくても、秘書かなにか、少なくとも仕事にはすぐ就けると思ってたんですが……」
11年に薄井さんは、バンコクのカフェテリアでの成功体験を持って日本に帰国した。そこから、改めてキャリアを築いていくはずが、もくろみは大きく外れてしまう。
「求人に応募しても、面接すら受けさせてもらえないんです。もう、何社落とされたかも覚えてない。半年間、来る日も来る日も、履歴書を送っては、片っ端から落とされ続けました」 先方から不採用の明確な理由を、告げられることはなかった。
「ほぼ間違いなく、52歳という年齢が理由だったと思う。それと長い期間、専業主婦だったことも」
薄井さんの履歴書には、30代初めから17年間の空白があった。
「でも、その間、何もしていなかったわけじゃないのにね……。世の中から『いらない』と言われてる、そんな気持ちになった」
心の奥にふつふつと湧いてくるものがあった。それは1人の人間を育て上げたという矜持。そして、強い怒り……。
「それでも、なんとか会員制クラブの電話受付、時給1千300円の仕事に就くことができました」
薄井さんは持ち前の真面目さ、そして主婦時代に培った能力をフル稼働。1年後には全体の売り上げの4割を、彼女が1人で稼ぐまでになった。13年には知人を介してオファーを受け、ANAインターコンチネンタルホテル東京に転職を果たす。ここでもわずか3年で、営業開発担当副支配人に抜擢されるまでに。その後も、ラグジュアリーホテルとして名高いシャングリ・ラ東京に転職。そして18年。薄井さんは日本コカ・コーラにヘッドハンティングされる。
「同社は、東京オリンピックとパラリンピックの大スポンサーですから。当初の予定では世界中から来日する大勢のお客さんたちをもてなす人間が必要だったんです。そこで、私がホスピタリティの責任者に選ばれたんです。
具体的な仕事は、会社が購入する観戦チケットの選定や発注、それにお客さんたちのためのホテルはもちろん、海外から来るスタッフの宿泊先を手配するのも重要な仕事でした」
真面目な薄井さんは、オリンピックやパラリンピックの全競技を改めて勉強し、分析。競技ごとの観客の熱中症の危険度まで調べ上げたうえでチケットを購入するなど、抜かりなく準備を進めていた。
ところが、いよいよオリンピック開幕のカウントダウンが始まろうとするころ、東京は、いや、世界は予期せぬ事態に見舞われてしまう。新型コロナウイルスの感染爆発にさらされたのだ。
「20年春に東京大会の1年延期が決定し、今年に入ると、本国アメリカのコカ・コーラの本社も、海外から東京にお客さんを送らないことを決めた。その時点で、私の仕事はなくなったんですね」
今年2月、薄井さんは失職する。61歳だった。