図鑑シリーズでは「奇岩」と「祝祭」を制作。『地球の歩き方』に40年携わる伊藤伸平さん 画像を見る

海外旅行に行ったことのある人なら、必ず一度はお世話になったであろう『地球の歩き方』。1979年9月の創刊から42年続く、旅行ガイドブックの代名詞的存在だ。

 

コロナ禍で旅行がままならない逆風の最中だが、新たに発売した“家で読んで楽しめる”「旅の図鑑」シリーズが話題になり続々と重版するなど、老舗の強さを発揮している。

 

『地球の歩き方』の人気が衰えない秘密はなんなのか。編集室に尋ねてみると、創刊間もない頃から執筆を続けるレジェンドの存在を耳にした。40年以上もの間、同じ本を作り続けるなんて並大抵ではない。そこで、“家で読んで楽しめる”「旅の伝説」について、お話を伺うことにした。

 

インタビューに応じて頂いたのは、数多のシリーズ初版を手がけてきた伊藤伸平さん。編集室の黎明期から聞かせてくれた。

 

■「出会ったばかりで1万円をポンと…」

 

「『地球の歩き方』は、学生向け個人旅行ツアー参加者に、先にツアーに参加した“旅の先輩”から発信された、情報集がもとになって誕生しました。

 

今では学研プラスの傘下にある『地球の歩き方』ですが、もともとはダイヤモンド社が刊行していたシリーズ。かつてのダイヤモンド・ビッグ社(ダイヤモンド社の子会社)では、ダイヤモンド・スチューデント・ツアー(DST)という学生向けのツアーを行っていました。往復の飛行機に到着日、最終日のホテルが1泊ずつ付いた個人旅行ツアーが特に人気で、その参加者たちの旅の情報を、当時ダイヤモンド・ビルにあった部屋『ダイヤモンド・スチューデント友の会・旅のサロン』を通して、次の旅行者に向けてまとめたのが始まりです。

 

こうした経緯もあってか、サロンでもあったその頃の編集室は“旅の交流の場”といった雰囲気。今も地球の歩き方が編集“部”ではなく編集“室”と名乗るのは、その名残だと思っています。

 

私が携わるようになったのも、初代編集長と旅先で偶然出会ったことからでした。

 

学生のときバックパッカーだった私は、大学の卒業旅行でオーストラリアとニュージーランドを旅しました。80年代当時のオーストラリアは、世界一物価が高いともいわれるような国。旅の終盤にさしかかるとお金が心もとなくなってしまい、野宿しようとベンチを物色していたんです。

 

当時、アジア人個人旅行者といえば、ほぼ日本人しかいないような時代。だからアジア系の顔を見ると、『こんにちは』などと声をかけあうのは普通のこと。その日もそうした感じで、“チョビヒゲ”のおじさんに話しかけられたんです。すると『野宿するくらいなら、僕がとってるホテルの部屋の床で寝たら?』と言ってもらえたので、ホイホイついて行っちゃって(笑)。今だったら危ないかもしれませんが、このときについて行った人こそが『地球の歩き方』を立ち上げた初代カリスマ編集長だったんですよ。

 

泊めてもらった夜にパブでおごってもらいながら、旅の話や編集室の話をふんふん聞いて。翌朝、別れ際にはなんと1万円をポンとくれたんです。なんていい人なんだと思いましたね。

 

『日本に帰ったら編集室においでよ』の言葉を鵜呑みに、お礼がてら訪ねたのが人生のターニングポイントとなりました」

 

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出典元:

WEB女性自身

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