『鎌倉殿の13人』(NHK)が好調を持続している。初回放送後にはツイッターで世界トレンド1位を獲得、同時・見逃し配信サービスでの視聴も好調で、前作の2~3倍にも上っているという。「首チョンパ」「平家をぶっ潰すぜ」など現代風の台詞や、小池栄子演じる政子の“クネクネ艶技”など、コメディ要素たっぷりの大河に今後ますます注目が集まりそうだが……。
「今回の大河では、北条家を中心になんともユーモラスなやりとりが話題を呼んでいますが、史実から見ると、実は鎌倉時代はそんな明るいだけの時代ではありませんでした」
こう語るのは、歴史学者の渡邊大門さんだ。大河では描かれていない日本史のカゲの部分を『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』の著者でもある渡邊さんに解説してもらった。
「日本では鎌倉時代になって奴隷制度が禁止されます。ところが、寛喜2年(1230年)~寛喜3年(1231年)にかけて発生した『寛喜の大飢饉』が起きて、多くの庶民は困窮します。生活困窮者が妻子や従者を売り飛ばしたり、裕福な家に下働きとして身を置いてもらうなどが跡を絶たない状況となり、幕府は非合法ながら人身売買を認めざるを得なくなったのです」
寛喜2年の夏は冷夏と長雨が続き、そうした天候不順が農作物の収穫量の減少を引き起こし、飢饉の原因になったという。
「人々はわずかに残った備蓄穀物を早い段階で食べ尽くしてしまい、全国的に餓死者が続出しました。激しい飢餓で人々は死に絶え、人口の3分の1が失われたといわれるほどだったといいます。また、翌寛喜3年は一転して激しい猛暑に見舞われて、旱魃(かんばつ)が農民を苦しめました」
京都や鎌倉といった都市部に生活困窮者が流入し、『明月記』(藤原定家の日記)には、餓死者の死臭が漂ってきたという生々しい記述もあるという。そのような大飢饉を経て、幕府は延応元年(1239年)4月に次のような法令を出した。
《寛喜3年に餓死者が続出したため、飢人として富家の奴婢になった者については、主人の養育した功労を認め、その奴婢になることを認める(人身売買の許可)。人身売買は、その罪が実に重いものである。しかし、飢饉の年に限っては許可する。ただし、飢饉のときの安い値段で、売主が買主から奴婢を買い戻す訴えを起こすことはいわれのないことである。両者が話し合って合意し、現在の値段で奴婢を返還することは差し支えない》
『寛喜の大飢饉』から8年たった当時でも、人身売買をめぐる問題は深刻だったことがこの法令からもうかがえる。このときの将軍は藤原(九条)頼経、執権は北条泰時(義時の長男)だった。そして、歴史書『吾妻鏡』には、同年(1239年)5月に幕府が人身売買を再び禁止したことが記されている。
その後、鎌倉幕府が滅亡し、室町時代となった1300年代中盤以降、日本人が近隣諸国の外国人を連行してきて、国内で人身売買を行い、さらには日本人も奴隷となって海外へと売られていく時代になっていく、と渡邊さん。
「14世紀~15世紀にかけて、主に日本人が朝鮮半島や中国大陸沿岸を襲い、現地の人を連れ去り、食料などを盗むといった海賊行為が急増していきます。中国や朝鮮の人は、この海賊たちのことを“倭寇”と呼び、倭寇に連れ去られた人たちは、日本国内で人身売買されることが常態化していくのです」
さらに戦国時代になると、国内の合戦の場では“乱取り”といって、どさくさに紛れて人を連れ去ったり、物を盗むことが横行したという。
「豊臣秀吉の時代に、戦が続いていた九州では、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題になります。日本人奴隷を船に乗せて東南アジアなどをまわって転売していくんです。当時、ポルトガルはマラッカやインドのゴアなど多くの植民地を持っていたので、格安で手に入れた日本人奴隷を寄港した先で売って、そこで使役させていました。戦国時代には、かなり多くの日本人奴隷が海外へと売り飛ばされることが実際にあったのです」
天正15年(1587年)4月、九州平定を終えた秀吉は、家畜のように扱われている日本人奴隷が、ポルトガル商人が準備した船に次々と乗せられる姿を見て激怒したという。
「『イエズス会日本年報』には、秀吉とイエズス会の日本支部準管区長を務めるガスパール・コエリョが、日本人奴隷の問題で口論したことが書かれています。そして天正15年6月19日、秀吉はキリスト教の宣教師を追放するなど、5か条にわたる“伴天連追放令”を発布。その後、江戸時代に入り、日本人奴隷交易は終息へと向かっていきます」
一説によると、ポルトガル商人による日本人奴隷の被害者は5万人以上に及んだという。ドラマの中では描かれない“負の歴史”を知ったうえで大河を見ると、また違った興味が湧いてくるかもしれない。