【御巣鷹山から37年】「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明
画像を見る 日航123便墜落事故で夫を亡くした吉備素子さん(撮影:加藤順子)

 

■「家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが、主人の日課でした」

 

「私が生まれて3カ月のとき、父はニューギニアで戦死しました。私には父の記憶がないんです」

 

1942年9月24日、朝鮮生まれ。歯科医の父と石川県出身の母とのあいだに生まれた、3人きょうだいの末っ子で次女が吉備さんだ。

 

3歳になる年に終戦を迎え、その12月に一家は引き揚げの途に。

 

「すでにロシア兵が侵攻していて、一家で歩いて38度線を越えました。足が動かなかった私を、母が背負って歩いてくれたんです」

 

命からがら「おんぼろ船に乗り込んで」父の実家の徳島県へ。

 

成長につれ股関節は丈夫になり、小学校には杖なしで歩いて通えた。

 

その後、学生時代の吉備さんを見初めたのが、雅男さんである。

 

「3歳上の雅男さんと学生同士の集まりで知り合いました。でも私は最初、逃げ腰だったんです」

 

というのは雅男さんの外見が、いわゆる“コワモテ”だったから。

 

だがそのうち、彼の内面のやさしさ、包容力に気がついた。

 

「長男で、責任感が強い人とわかってきました。逆に私は末っ子で、甘えたいところがあった。

 

股関節のことでいつかは歩けなくなる覚悟をしていましたので、『歩けなくなったら、必ずおんぶしてあげるよ』という雅男さんの言葉が、温かかったんです」

 

大学で薬剤師の資格を取得した雅男さんが製薬会社に就職した後、2人は結婚。長男、長女も授かり、幸せを実感する日々を迎えた。

 

「主人はたばこを吸わず、お酒も仕事のつき合い程度。家に帰ると、その日の出来事をすべて私に報告するのが日課でした」

 

そんな雅男さんに、吉備さんはかなり溺愛されていたようで。

 

「私が家から徒歩数分のパン屋さんに行くのも心配で、幼少の娘に『迎えに行っておいで』と後を追わせ、次に息子を。最後は本人が店の前で私を“出待ち”していて」

 

吉備さんも、夫に献身した。

 

「主人は朝6時半過ぎには家を出ますから、私は4時起きで、まず自動車を拭いて、靴を磨き、家族全員分の食事を支度します。

 

そして、主人の仕事に役立つようにと、経済や医学の新聞記事に赤ペンで丸をつけるんです」

 

ほほ笑んだ吉備さんが、表に目を向けるように言った。

 

「車の運転席に主人、隣が長男で、後ろに長女と私。

 

そんな休日には幸せをしみじみ感じました。『この幸せがずっと続きますように』と天国の父に祈っていたんです」

 

夫45歳、妻42歳、幸せの絶頂にいたはずが、あの日、一変する。

 

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