■バラバラになってしまった夫を必死で探しまわった
1985年8月12日、夕刻。 東京から帰阪する予定の夫を、長男が伊丹空港に迎えに出ていた。
「19時過ぎ、その息子から電話で『いつまでたっても出てきへん』と。いつも、真っ先に降りてくる主人がです。慌ててテレビをつけたのが19時半ごろでした……」
テレビから飛び込んできたのは、
《日航123便が、レーダーから消えたもようです》
近所に住む妹夫婦に、すぐ空港まで送ってもらった。
「主人が乗った飛行機だとわかっていました……でも、無事をひたすら祈っていました」
夫の同僚も駆けつけた。そして。
「《墜落した》とだけわかりました。でも《場所はわからない》と」
搭乗者名簿の報道に夫の名が出たのは、23時過ぎだったと記憶している。
一旦帰宅し「一睡もせず」翌朝7時の飛行機で上京。「群馬方面」へのバスの道中、11時前に《生存者4人発見》の速報が。
「でもなぜか『主人はダメだろうな』と感じていました。群馬について、トイレに行く気も食欲もなく体育館で待機していると、16時過ぎに警察が『調書を取る』と」
そこで夫の持ち物、身体の特徴、服装、カバンの中身などを聞かれるにつけ「ふつうの状態では見つからないのだろう」と観念した。
「体育館には次々遺体が収容され、17日には身元確認に遺族2人までが入れることになりました。
でも、虫の死骸を見るのも苦手だった私は長男と義弟に止められて、彼らが先に入ったんです」
ほどなくして、雅男さんと似た遺体の一部が見つかったといわれたが、吉備さんが確認すると一目瞭然で別人とわかった。
「ちょっと擦りむいたり、筋肉痛があるだけでも『痛い、痛い』って私に甘える人でしたから、どこに傷があるかも全部わかっているんです」
当時、検視では、頭部と胴体がつながっている遺体を「完全遺体」、両部が離れた遺体および顔や手足など一部のみの場合を「離断遺体」(部分遺体)と呼んだ。
群馬県警高崎署で身元確認班長を務めた飯塚訓さん著『墜落遺体』(講談社)によれば同事故の検視総数は《2千65体》。つまり《520人の身体が、2千65体となって検屍された》というのである。
このような想像を絶する状況で、吉備さんは「必死になって主人を捜し回った」と述懐する。
「家が好きだった主人を、早く家に連れて帰りたい一心でした。あるとき子どもさんの棺を開けてしまったんですが、そこに納められていた小さな右手が、ひと目で主人のものとわかったんです」
なぜ小さな右手を雅男さんだと確信できたのだろう。「ダメだ」と警察に制止されるも食い下がり、指紋の照合を懇願している。
「5時間ほど後に、指紋が一致しました。焼かれたら縮むんですね。すっかり小さく、やさしい手になっていたけれど、指の短さなどが夫の手でした。主人を見間違うはずがありません」
棺にはズボンも置いてあった。
「主人のズボンに違いありませんでした。そして棺には、太ももの途中から足首までしかない右足があり『B型』と書かれていた。
でも主人は『O型』ですので、警察に引き取られてしまい、『もう一度、正確な血液検査をしてください』とお願いしました」