■骨密度も20歳並み。アスリート並みの健康体に生んでくれた両親に改めて感謝
最初の「シリーズ人間」の記事では、夫は「20歳以上年下」の「義男さん(仮名)」と紹介されていたが、実はこれは正確ではない。
「彼は中東出身で、年も24歳下です。仮名を使ったのは、当時、それはすさまじい報道ぶりでしたから、少しでも外国人の彼をマスコミから守るための苦肉の策でした」
中東の夫の親族たちは、この結婚に猛反対した。
「なんで、わざわざそんな年上の女性と結婚するんだ」
「もっと若い人と結婚すれば、子供も自然に授かるのに」
それら苦言に深く悩み始めた夫の姿を見て、影山さんは決心する。
「私は子供のころからカトリックだったので、『子供は神からの授かりもの』という考えを持っていました。でも、もう待っているだけじゃダメだと思ったんです」
55歳にして、影山さんは妊活をスタートさせた。
事前の検診でわかったのは、自身の肉体がすこぶる健康なこと。50代半ばにして、虫歯は1本もなく、髪も黒々としている。
「骨密度も20歳並み、ホルモン値は同年代の2倍以上、生理も順調。このデータを知らされて、あの戦争の食うや食わずの時代に、アスリート並みの健康体に生んでくれた両親に改めて感謝しました」
■20代、30代と介護に追われ、50代で彼と出会い、60歳で出産。逆走の人生に終止符を
「孫がいてもおかしくない患者の不妊治療をしたら、私が日本中からバカにされる」
診察を希望する影山さんに、不妊治療で有名だったある医師は言い放った。その後も、信頼して任せられる医師とは出会えなかった。
途方に暮れる影山さんが最後に駆け込んだのが、東京都千代田区の「卵子提供・代理母出産情報センター」。’91年の設立以来、アメリカのネバダ不妊治療センターと提携して、すでに200件もの出産を手がけていた。
「20年たった今だから言えますが、影山さんの出産に際しては、『リスクが大きすぎる』と、スタッフ全員が猛反対でした。万が一のことがあれば、日本の医療界から干されるのは明らかでしたから」
そう語るのは、同センター代表の鷲見侑紀さん。影山さんとの交流は現在も続いており、今回の取材にも同席した。
「私どものセンターでも、受け入れの年齢に55歳というガイドラインをもうけていましたが、影山さんはすでに57歳でした。
それなのに、なぜ私が影山さんのケースを進めたか。理由は2つ。一つには、健康・肉体的に申し分ない条件がそろっていたこと。
そしてもう一つは、彼女が自分のためではなく、愛する夫に子供を抱かせたいと心から望んでいた気持ちに感銘を受けたからです。相談に来るときも必ずお2人で、手をつないで。『たとえ母になれても、いつまでも“女”でいたいんです』と彼女は言いました」
’99年5月には卵子のドナーが見つかっていながら、子宮筋腫が発見されてしまう。
「しかし、彼女は自分で医師を探して手術を敢行したほど。その1年後、4度目の渡米、2度目の体外受精で妊娠に成功します。
日本での出産は、高齢出産で実績のある東京慈恵医大病院産婦人科が受け入れてくれました。
これも今だから話せますが、当時、先生方と、『もし出産までに母子が危険な状態に陥ったときには、母親の生命を優先する』と合意していました」(鷲見さん)
当の影山さんは、もしかしたら誰よりも妊娠することに確信を抱いていたかもしれない。
「卵子ドナーの28歳のアジア人女性のリストを受け取ったとき、彼女の誕生日が彼と同じだったんです。その運命的な偶然を知ったとき、この出産はきっとうまくいくと信じることができました」
そして’01年7月21日、影山さんは、帝王切開で2558gの元気な男の子を出産。「レノ」と名付けた。
「大好きだったジャン・レノと、体外受精でお世話になった米国リノ市にちなんでの命名です。別に父親の国での名前もあります。
また、レノの誕生日は父親と一緒です。予定日が夫の誕生日に近いとわかったときから同じ日に産もうと決めていて、私から主治医の先生にその日の帝王切開を『どうしても』とお願いしました」
前述のとおり、出産の翌日から怒濤の報道の嵐となった。
「覚悟はしていましたが、『おばあちゃんが赤ちゃんを産んだ』という見出しには深く傷つきました」
鷲見さんには、忘れられない当時の会話があったという。
「生まれた赤ちゃんの健康のためにも『初乳は、母乳を与えてください』と主治医の先生に言われ、私は影山さんに伝えましたが、これは意外にも拒否されたのでした。
聞けば、『彼のために体のラインを崩したくないんです』と。これには驚きましたが、改めて深い夫婦愛にふれ、今後の子育ても大丈夫と安心したものでした」
当の影山さんも、レノ君を初めてわが胸に抱いて、思う。
「多くの方とは逆に、私は10代を孤独に過ごし、20代、30代と介護に追われ、50代で彼と出会って本当の愛を知り、60代で子供を産んだ。
そんな逆走の人生に、ようやく終止符を打てました」