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「田んぼが大きい人も小さい人も、会社をやっていようがいまいが、仲よく暮らしていたのに、あの日を境に変わってしまった」

 

こう語るのは福島県浪江町から避難し、今は復興公営住宅で暮らしている今野寿美雄さん(58)。

 

’11年3月11日に起きた東日本大震災や、東京電力福島第一原子力発電所の事故からまもなく12年がたとうとしている。しかし、今なお住民たちが震災によって受けた“傷”は広がり続けているのだという。今野さんが語る。

 

「事故当時から国や東電は住んでいた地区や事業の内容によって賠償金の額に差をつけていました。

 

浪江町民ら721人が、国と東電に約89億円の追加の損害賠償を求めた訴訟が続いています。そこで5人ずつ住民が尋問されました。その際、東電はあなたには2億円払った、あなたには1千万円払った、と賠償金の格差があることをこれ見よがしに明かしたんです。

 

所有している土地の広さや営んでいた事業のあるなしで差がつくのは当たり前です。しかし、そのせいで、住民たちの間に深い溝ができてしまいました。賠償を収束させたい岸田政権が、住民同士を争わせて国に怒りの矛先を向かわせないようにしているのではと思ってしまいます」

 

岸田首相は、内閣の基本方針で《東北の復興なくして日本の再生なしとの強い思いの下、被災者に寄り添い、被災者支援、農業・生業の再生、福島の復興・再生に全力を尽くす》と宣言している。しかし、岸田政権になってからも“復興”は見た目だけしか進んでいないという。今野さんが続ける。

 

「まもなく浪江町津島地区に10戸の福島再生賃貸住宅が完成しますが、入居の申し込みは3世帯だけ。それも移住すると100万円がもらえる特典がついてようやくのこと。箱物だけ建てても住民は戻ってきません。そもそも復興とはいったん元に戻って立ちあがること。元に戻っていないのに復興なんて言葉を使ってほしくない」

 

かつて2万1千人いた浪江町の住民は、全国に散り散りになり今では2千人ほど。今野さんの自宅がある地区は’17年に居住制限が解除されたものの、自宅周辺の放射線量が高く、’20年に自宅を解体することになってしまった。

 

処理水の海洋放出に地元漁師が明かす苦悩「国の保証は実情に沿っていない」【12年目の被災地:後編】へ続く

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